白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

脱成長の経済学の難点

経済成長というスローガンが賞味期限切れとなった今も、経済成長の信者は多数派である。経済成長という装置は100年以上にわたって人々の欲望を燃やす続けるエンジンとして機能し続け、今もそれなりに機能している。

しかし、もう何十年も前からそのメカニズムの弊害と限界が叫ばれている。脱経済成長派は20世紀における、自然環境の破壊、社会や文化の破壊、格差の拡大、貧困の増大などの負の側面を強調する。はたして経済成長は世界にどんな豊かさをもたらしたのか。そして、どんな爪痕を残したのだろうか。こういうことを書くと、知的レベルの低い人はサヨクというレッテルを貼りたがるが、そういう人こそ反知性的な経済成長教カルトの信者だ。

経済成長教はある面でうまく機能していた。単純な欲望を燃やす続けるエンジンとして、経済活動に秩序を与える制御系として、それなりにうまく行っていた。万能で無謬な社会システムなど望んではいけない。しかしいま、経済成長教は破滅の危機にある。

「脱成長」を旗印にした経済学者たちが大群となって押し寄せている。セルジュ・ラトゥーシュなどがその代表格だ。彼らが目指すべきものに俺は共鳴する。しかし、それは経済学としては未だ構想段階でしかなく、決定的に内容がない。どのようなメカニズムで経済秩序が作動し、安定するのかという一番重要な部分が、人がいかにして経済活動に対するモチベーションを持続しうるのかという最も重要な部分が欠落している。自動車の形はしているがエンジンがない。そういう自動車を消費者は買わない。

そこにはまだ、「国富論」もなければ「資本論」もないということだ。意識の高い系の人が多少集まっているというだけで、大衆的な熱狂がない。むしろ、現状を打破するには資本主義の持つダイナミズムを駆動するしかないという考えを持つ人の方が優勢だ。そして、それはおそらく破滅を促進するだけで終わる。もっと新しい視座が必要だ。

コーポラティズムと呼ばれる資本による国家の支配が進行している。アメリカにおける民主主義の衰退にそれは顕著だ。そしてグローバル化は資本の野望であり、リバタリアニズムあるいは新自由主義は、新しい宗教だ。資本主義は伝統的に市場と政府という車の両輪でバランスを取っていたが、政府は資本の傘下に入り、富の再分配機能が破壊されようとしている。

資本はマスメディアを使って大衆の無能化に成功した。反体制派の存在は容認する。それは自由であることを証明するために必要な存在ですらあるからだ。いや、有力な反体制組織こそが体制に組み込まれている。たとえば連合。たとえば朝日新聞。

話が脱線した。要するに「脱成長」などという反動的な言葉ではなく、もっと魅力的な言葉とビジョンと具体的なメカニズムが示されなくてはいけない。そして、そう考えている学者は日本にも少なくない。少なくとも、経済成長教というカルトの相手をしている時間はない。説得する前に構想し、設計し、新しい自動車を作ることが脱成長派の仕事だ。絵に描いた自動車を売ろうとしている現状は滑稽に過ぎる。

豊かな生活が快適なものではないことが証明された現在、私たちは人間らしさのある快適な生活を志向するべきなのだろう。そこにあるのは、脱成長というネガティブな言葉ではなく、新しい言葉、新しい概念だ。もっと想像力を働かせよう。経済ゲーム中毒患者に用はない。