絶縁で運気は変わるか

昨日のエントリーの続きである。怨念を持っている母と表面上、上手く付き合えるのか。答はノーだ。善は急げ。早速、絶遠の通告をした。答が素晴らしい。「もう二度と電話をかけて来ないでよ。」本音、丸見えだ。

さあ、絶縁で運気は変わるのか。

呪いは解けるのか。

局面は変わった。

見捨てられた喜びの黄色い丘に来た。

親子。そんなものですよ。

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ブタ

 

怨念

眠れない。眠るにはまだ早い。書きたい。何を書きたいのか。それが分からない。

怨念。私は人生で一度だけ怨念を持っている。2011年7月25日。熱中症で倒れた私を、母はタクシーで精神病院に運んだ。入院。これが私の人生の転落の始まりだ。今も恨みは消えていない。包丁で刺し殺して家に火をつけることを何度思ったことか。とにかく、この時、私の表舞台での人生は終った。転落した今は楽だ。転落するまでが地獄だった。飛んでもないエピソードは無数にある。ただし、警察沙汰はない。

我欲。これは誰にでもあるのだろう。だから、無我とか無執が崇高に見える。

私も、怨念を捨てようとするのだが、捨てられない。無我を目指すべきかどうかも分からない。ただ、余命3年。エネルギーもない。僅かなエネルギーをどこに使うのか。

怨念を捨てようとするのにも、エネルギーがいる。無駄なエネルギーは使うまい。

何か、楽しいこと。もう、成果はいらない。ハイボールか。笑。

 

続・狂った季節

kakuyomu.jp

 

白井京月は作家である。「狂った季節」のほかに「宇宙人会議」や、多数のショーショート作品がある。しかし、最近は絶不調だ。

ここは一つ、「続・狂った季節」を書くしかないと思った。

半自伝的作品。続編は転落と貧困の物語になるのか。障害者として、どう生きるのか。面白い話になりそうだ。

無一文。米と卵とカップ麺だけで凌いだ1週間があったあのですよ。

転落だけでは面白くない。統合失調への病相の変化や、瞑想問題も入れよう。もちろんフィクションもだ。

結構、本気だ。エンディングは生活保護で良い。

「笑顔の監獄」の佐藤大作に登場してもらおう。福祉の全容を知る男。福祉のフィクサーだ。

やっと覚悟がついたよ。障害者世界で生きて行く。一般世界への復帰は目指さない。このままの暮らし。それで十分だ。

新しい経済学

新しい経済学。現在の経済学が「豊かさの経済学」とするならば、新しい経済学は「快適さの経済学だ」。もはや、貧困と戦う時代ではない。もっとも、貧困国のことは知っているが、いまの開発経済学は逆効果だ。

利潤を追求し、所得を倍増させる時代は終わった。もはや、基本的な豊かさは保証されたのだ。ライフスタイルを大きく変える時代。新しいライフスタイルを模索する時代。それが現代だ。

一方で、生存学という学問がある。障病老医(障害、病い、老い、異端)を考える学問だ。新しい経済学は、生存学も視野に入れなければならない。

国家の役割。それも時代とともに変わる。政治は、そういうところで上手く舵をとらないといけない。弱者救済がベーシックインカムだなどというのは短絡である。現在の複雑で精緻な福祉を知らない人の言うことだ。

快適さの経済学が目指すもの。それは、多様なニーズへのきめ細かい対応だ。

とにかく、利潤を追求する古い経済学は終っている。経済成長など死語だ。経済成長なき経済発展が主張されたのは、20年も前だ。

さあ、古い常識を捨てて、新しい世界に飛び込もう。