白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

文化という過剰

今日の俺は昼からハイボールを飲んで酔っ払っている。そのうえ、既に脳は薬で萎縮しているし、最近の病相として思考がまとまらない。それでも書く。

 

文化とは過剰である。必要を越えたものが文化である。何も数万円の食器でコーヒーを飲まなくても、紙コップで問題はない。少なくとも、命に関わる問題はない。いや、あるかもしれないが、それは特殊なケースだ。

 

日本は今、デフレである。そこで消えて行っているものが文化である。ブランド品を持つ人は減り、オシャレ度は下がり、何よりも平均所得が下がり、宴会が減っている。

 

貧困層が増え、貧困問題はタブー視され、缶飲料の売上すら下がり、100円は大金となり、喫茶店に行くと貴族と呼ばれる。

 

憲法25条には、こんな記述がある。

1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 

問題にしたいのは「最低限度の」というところだ。最低限度の過剰というのは矛盾だろう。ここで言う文化的とは、風呂に入るとか、トイレに行くとか、服を着替えるといった最低限の文化規範なのだろう。しかし、営む権利を有するとはどういうことか。文章の読み方を変えると、最低限度の生活以上を営む権利は無い、と読める。

 

文化的。文化とは過剰である。家計における文化の指標は遊興費・交際費だろう。いまの日本の衰退は、この指標から読み取れるのではないか。

 

そう言えば、宇野常寛氏は、リアルとは晴れの場であり、ネットが日常になった、というようなことを指摘していた。リアルはお金がかかるが、ネットならお金がかからない。ネットが発達したということもあるがあ、みんなが貧しくなったのだ。

 

現代はデフレ文化の時代なのだという強弁もあるかもしれない。そうか、デフレの過剰なのか。それだから、このような劣悪なブログがネットに氾濫するのか。マックは100円でアイスコーヒーを販売し、ユニクロニトリといったデフレ環境を利用した企業だけが成功するのか。そうか、それが時代の流れか。

 

文化という過剰には逆風が吹いている。偉い人であっても、贅沢は批判される。何が贅沢かは庶民基準だ。メディアは、文化の外側にいる庶民に媚びを売る。スキャンダルだけが売れるニュースになる。文化は衰退し、低俗が蔓延る。

 

書いていて嫌気がしてきた。俺の文章が売れる時代ではないと思ってしまった。いや、ニッチ(隙間)はあるよ。気を落とすな。