白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

所持金がゼロの状態

10日金曜日にお金を使い果たし所持金がゼロになった。電話で友達に送金を懇願するも不調。11日から14日まで、所持金ゼロの日が続く。今日3日目だ。

食料は米とカップヌードル、ふりかけ。それだけだ。あとは水出し麦茶。これだけ追いつめられてもどこか平然としている。パニックにならない。

福祉関連のところからもお金は出ない。お金がない。それでも、食べ物がある。なら大丈夫といった調子だ。私は所持金ゼロなど初体験だが、世間では珍しくないらしい。

貧困とは、お金ではなく、食糧が尽きる心配をすることなのだとか。それにしても俺の当事者研究はラディカルだな。命がけだ。

なお、所持金ゼロとは、100円もない状態だ。しかも、タバコも酒もない。強制禁煙、強制禁酒だ。辛い。

しかし、家に食料と酒とタバコがあれば、所持金ゼロも大事件ではないように思えてきた。この、感覚のスリップが怖い。

この状態になって初めて、ご飯を炊いている。本当の生命線だと思う。

いや、これが今までの中で最高の、いや最低の底だろう。これ以上は勘弁してくれ。せめて納豆が欲しい。

私の思い(2011年4月)

一人でも多くの人に、本当の自分を生きて欲しい、本当の幸福を体験して欲しい。与えられた価値観によって、本当の目標を取り違えないで欲しい。金銭的あるいは社会的な成功を目指すというのは、だいたいが偽物です。それは手段であって、本当の目標には成り得ないのです。自分が一番心地よいのは、どんな感情で、それは何をしている時に生まれるのか。これに気がついている人は、自分を生きています。しかし、現実として、そういう人が悲しくなるほど少ない。


私は、本当の幸福を望む人に、その手助けをしたい。それが、セラピストとしての私の唯一と言っても良い思いです。そして、私は「本当の自分を生きている」人とのみ交流し、そういう人々による、より実りある、より快適なコミュニテーの創造に貢献したい。

 

私は、公式ホームページで、大胆にも「新しい社会を共に切り拓く、思考と技法のパイオニア」と宣言しています。私が望む新しい社会とは、多くの人が「本当の自分を生きている社会」です。ここ十数年、私の一貫したテーマは「個人・組織・社会のより良い関係」でした。それは学際的で、膨大で、難解で、一人でこれに取り組むということはクレイジーだったと今は思います。しかし、クレイジーもまた良し。それに気がついた今、アプローチを変更すれば良いというだけの話です。つまり協働ですね。

 

また、私の尊敬する人物の一人である、ジェームズ・マーチン氏の理論を採用し、途中でプロジェクトが終わっても、それなりの成果が得られる方法を採用します。私はアナリストにしてストラテジスト。さらには、最強の天才コーチがついている。人生の残り時間も考慮したうえで、「今、ここ」を生きます。

 

※以上がミクシに書いた日記です。舌足らずで、生煮えで、清純な感じがしますね。いまから、このコンセプトでセラピストを始めましょうか。セラピーとは寄り添うこと。私が本当の自分を生きなければいけない。私のテーマは一貫して社会変革です。そこに尽きます。文学は手段ですね。魅力的なビジョンはあるのか。ああ、これ7年前。つまり事件前なんですね。やっぱり、事件は陰謀だったのか。俺は警察に潰されたのか。誰が警察を動かしたのか。闇はそっとしておきましょう。さあ、仕切り直し。

節約法は十人十色

厳しい節約を迫られている。1日千円。いろいろな人が助言してくる。酒とタバコはやめるのではなく減らせ、という人もいる。もちろん、やめろという人もいる。精神科医は禁煙して発狂するくらいなら、食費を削ってもタバコを吸えと言った。自炊すべきだという意見と却ってお金がかかるという意見。計画書を作るFP2級を持つPSWまでついている。サポートしてくれる人は多いのだが、主体が危うい。計画は作れても実行で失敗する人なのだ。

今日の電話相談の男性は面白かった。1日1食ですねと来た。それで、酒もタバコもやる。なんでも最近の若い人の中には、貧困を経験しようとする人が少なくないのだとか。人生修行のような感覚らしい。ファッションではないようだ。妙に真面目だなと、少し気持ち悪くなった。

まあ、無駄と言えば、缶、ペット飲料だろうな。1日400円以上、40%以上は多すぎる。水出し麦茶に変えよう。

自炊はしよう。毎日一合とタマゴと醤油、あるいは納豆。カップ麺はお約束になったのか。

あとは料理の得意なヘルパーさんの活用だ。週1回はうまいものが食べられる。ただし資金は大丈夫か。300円で何ができる。麻婆豆腐も難しいか。どうだ。

実際に、1日千円のスキームに入っての初日。予定外にタバコを買い、缶飲料をたくさん買い、2千円使ってしまった。しかし、落ち込むことなく、あっけらかんとしているのは何故だ。馬鹿なんじゃないのか。能天気なんじゃないのか。

いえね、それぐらいでないとやってられませんよ。57歳にして初めて経験する本格的貧困。心の薬になるかもしれない。なに、荒むだろうって。もうそこは通過している。そんなことを考える余裕はない。毎日が勝負なのだ。復活はあるだろう。そう信じないとやってられない。貧困世界の中で、私は社会的資源を総動員している。自慢にはならないが。

 

2018年8月、俺は自炊に走ることにした。

狭い1Kのマンション。部屋ではパソコンが威張っていて、室内はオフィス風だ。調理スペースが無いのだ。外食三昧はできないのだ。自炊するしかないのだ。という訳で、パソコンを机からおろし、大きいテーブルを調理スペースにすることにした。

このレイアウト変更は一人ではできない。木曜日にヘルパーさんとやる。流石にコンビニおにぎりとカップ麺と食パンという食生活はまずいと思ったからだ。

基本調味料とか、お金かかりますよ、とヘルパーさん。急がなくて良い。まずは、納豆ご飯からだ。あとは、野菜炒め。肉。魚。

パソコンが無くなるのだ。ブログの更新はどうなる。SNSはどうする。一部はスマホからだろうが、ブログをスマホでやる気にはならない。

2018年8月、俺は自炊をはじめる。久し振りの自炊だ。根性の転機だ。生活の基本は自炊だろう。基本から立て直すのだ。

金曜日には訪問看護師さんが来る。喜ぶ顔が目に浮かぶ。料理は脳を活性化する。精神病の回復にも有効かもしれない。成果。忘れなければそれで良い。