精神障害者世界を楽しもう

精神障害は個性だと思う。ただ、その個性が一般世界に適さない。だから治療。違うだろ違うだろ。精神障害者世界を作って個性を楽しむのじゃ。

ん。精神障害者世界って何かって。病院とか、就労継続支援B型事業所とか、障害者地域活動支援センターとか、いろいろある訳さ。

まあ、そこから一般世界を目指す人もいる。ただ、俺は違う。生涯B型で良いと思ってる。いろいろあって、考えが変わったんだ。もう、一般世界への思いはかなり薄れたね。リカバリー・ビジョンで書いたベストセラー作家も、どうでも良くなった。それよりも障害者世界の中を充実させること、楽しむことが大事だと思うようになった。

精神障害者にとって治療とはなにか。QOLとは何か。それを考え直してみたんだ。

わたしにとってB型は、A型や一般就労へのステップではない。B型こそが最終地点、天国なのだ。いや、天国にしてしまうのだ。

障害と共に生きるとは、どういうことなのか。一般社会の尺度を採用しないということだ。障害は個性。変える必要はない。苦しみは治療で除去。楽にすればいいと思う。

俺は良い場所を見つけた。

障害と共に生きる

私は精神障害者である。今までは回復を期待して治療してきた。あるいは、絶望していた。しかし、今は違う。障害と共に日常を過ごすことが目標だ。思考力がない。集中力がない。そわそわする。そこから逃げずに障害と付き合う。さらには抗精神病薬の作用と副作用に付き合う。仕方ないな。こんな気持ちになって、まだ数日。障害を愛おしく感じるようになった。家の中で、ワンワンとかピヨピヨと鳴く。これがとても気持ちいい。躁状態鬱状態。発狂。いいじゃないか。ただ、パニック障害は困る。

私のパニック障害はいろいろある。もう、一人暮らしは無理だと弱気になる。入院願望、グループホーム願望が強くなりパニックになる。金欠パニック。過呼吸。頻脈発作。パニック発作はやばい。躁状態よりヤバいかもしれない。今は、躁状態になっても使うお金がないので、実害は小さいからだ。

今日、ヘルパーさんが言っていた。精神科の薬は治すのではなく、症状を抑えるだけですからね、と。その通りだろう。

いま、鬱である。死にたい。死ぬ方法も知っている。シアナマイドを100ml飲んで、それからアルコールを浴びるように飲めば、呼吸困難で死ぬだろう。間違っても救急車を呼んだりしないように、スマホは駅のゴミ箱に捨てておくこと。方法は知っているが、まだやらない。なぜだろう。わからない。

生への未練。障害と共に生きるという態度。可愛い精神障害者でも目指すか。力が入っているな。もっと脱力して良いんだよ。承認欲求があるのか。評価されたいのか。だから、しんどいんだね。そして、投げやりになるんだね。

障害を愛おしく思おうよ。躁エピソードなんて面白いよ。妄想なんて画期的だよ。しんどいよ。でも、それも面白い。運命なんだよ。遺伝子の悪戯。

俺なんてパソコンを落として、防衛省に電話したよ。軍事機密が漏洩しました。死んでお詫びします。慣れた感じで、死ななくて良いですよと言われた。

そうなんだ。死ななくて良いんだ。障害を愛でて、障害と共に生きる。それが良い。

精神障害者と主体性

厚生労働省の統計は、心療内科、精神科に通院しているだけで「精神障害者」とカウントしているようだが、病歴20年の私からすると、障害年金をもらうか障害者手帳を取得する時が、自らを精神障害者だと感じる時のように思う。

私は38歳で発病し、50歳まで会社に勤めた。その間、自分が障害者だという意識はなかった。事業をやりたかったことと自由定年制度が重なって、自発的に会社を辞めた。主治医は反対だったが、私には主体性があった。

退職後、紆余曲折があって、私は障害年金をもらうようになり、手帳も取得した。そうすると行政の福祉の相談員が出てきて、相談という美名のもとに私に指図するようになった。

家賃の安いところに引っ越しなさい。実体がないんなら離婚しなさい。事業なんてやめて就労継続支援A型と障害年金でつつましく暮らしなさい。ヘルパーを利用しなさい。自炊は人間の基本です。兄は大学教授ですが料理の出来ない馬鹿者です。私は料理は得意ですよ。

この相談員はかなり特殊かもしれない。しかし、精神障害者となった私は、主体性を奪われた存在になったのだと感じていた。医師や福祉の支援者の意見に従うこと。それが当然なのだと思ってしまった。

そこから、一直線に転落した話は前にも書いた。離婚。転居。廃業。自己破産。等々。

知人に私が就労継続支援B型にも行った話をしたら、君の行くところではないよと笑われた。もっとも、今も別のB型事業所に行っているが。

もちろん、病状も最悪だったので、現在の状況には納得している。よく5年も入院せずに一人暮らしを続けているなと驚く。

精神障害者世界は独特だ。精神障害者世界も一般世界ですということもできるが、それは詭弁に近い。精神障害者世界は独特なのだ。パターナリズム。熱心な支援者の愛情。そういったものが有難くない訳がない。そして、精神障害者はそれを考える前に主体性を手放す。真に主体性を手放さざるを得ないのは、医療保護入院措置入院の時だけのはずだ。特に主治医のいいなりになりやすい。服薬はもちろんだが、私など、お金がないのなら一日家で瞑想しろと言われた。今思うと、あり得ない指導だが、私は2年間もそれに従った。今は転院している。

私も長い間、主体性、あるいは自律性を放棄していた。しかし、アルコール依存をめぐる治療をきっかけに、主体性を取り戻すことになった。私は主治医の飼い犬ではない。

錯覚もあった。精神障害者とは主体性を与えられない存在だという観念だ、間違った観念なのだが、こういう誤解は少なくないように思う。

誠に、障害者の支援は難しい。精神障害者の「好きにしてください」という主体性を放棄した発言には、どう対応するべきなのか。ケースバイケースだろう。

そうだね。精神障害者は主治医の飼い犬じゃないよね。もっと主体性を発揮して良いよね。ただね、医療福祉の世界では医者は神様気取りだからね。困るよね。

暗黒の時代は終わった

俺は目覚めた

精神障害者のレッテルを貼られ

人生を転げ落ちて気がついた

私の主治医は私だ

精神科医など利用するだけの話

あくまで主治医は私で主体性は私にある

医者は処方箋と診断書を上手く書けば良い

私の人生の主人公は私だ

私は主体性を完全に取り戻した

ここに、私の暗黒時代が終わったことを宣言する

詩集、愚者の祈りは失敗作として処理する

新しい詩集は「ピリ」だ

これは「文学秘密基地@白井京月」に書いて行く

とはいえ、回復には時間がかるだろう

当面は「狂月日誌」「文学秘密基地@白井京月」

そしてこの「次世代文明研究所別館」という三つのブログの

ブロガーとして活動する

第一宣言である「グダグダイズム宣言」も破棄する

グダグダに縛られるのも不自由なものだ

とにかく、私の暗黒の時代は終わった

それをここに宣言する