2018年の正月

父も母も生きている。それも5キロ圏内に住んでる。なお、父と母は離婚しており、父には新しい妻がいる。不思議なことに、調停の結果、父の実家に母が住んでいる。

正月、私は父にも母にも会わなかった。実家は縁起が悪いし、父の家には上げてもらえないのだ。

私は4年前に離婚して一人暮らし。正月の夕食はコンビニおにぎりだった。

3日の夕方友達が来た。それでも田舎で店が開いていない。夕食はコンビニの麻婆丼だった。

そんなことはどうでもいい。問題は新年の抱負とか、そういうことだろう。無い。そんなものは無い。救急車で搬送されないこと、死なないこと。それくらいしか浮かばない。あとは、発狂しないことか。まあ、無事これ名馬ということで。

知能の回復が待たれるところだ。ああ、男性機能の回復は今年のテーマだと主治医は言っていた。

知能、回復するのだろうか。お馬鹿な電話相談員が相当な努力が必要と言っていたが、そういう問題ではまったく無い。ばーか、ばーか、と言ってやった。謝っても遅い。クビにしてあげると言っておいた。

惨め。書けば書くほど惨めになる。いい歳して、何をやっているんだ。瞑想の方が良い。

障害者として生きる

日本には各地に地域活動支援センターという障害者の居場所がある。通称、地活。内容も雰囲気もいろいろだが、行政が枠組みを決め、助成金で運営されている。

私も今年の夏から、ある地活に行くようになった。これがまた居心地がいい。障害者ばかりということで安心感がある。同じ苦労をしているということで仲間意識が生まれる。それはそれで良いことだと思う。

しかし、一方で一般世界を避ける傾向が出てきた。一般世界で過ごすのが辛いのだ。これはきっと問題だ。

障害者世界と一般世界という区分を嫌う人、認めない人もいる。障害者世界も一般世界だと抗弁する。しかし、現実に障害をカミングアウトすることで、立場は決まってくる。

甘えかもしれない。いや、しかし無理はできないのだ。現実問題として、障害者として生きるしかないのだ。問題は、どう生きるかだろう。

2017年は何とかやり過ごせそうだ。2018年も無事であって欲しい。多くは望まない。よいお年を。

 

マナーのパラドクス

マナーを守ろう。マナーは大事。よく言われることだ。しかし、私的にはゴミ一つ落ちていない綺麗な街というのは不気味だ。ある程度の猥雑さがある方が私の好みなのだ。

先日、某所でこんな事件があった。みんなで昼食を食べている時に、私がある人の炒飯を美味しそうですねと言った。するとその人は少し炒飯をのこして、私にあげると言った。私は断った。すると、別の人が私の行為をマナー違反だと言った。私からすれば残した炒飯を上げようとする方が上から目線のマナー違反だ。このように、文化によってマナーは異なるのだ。階級によっても文化は異なるし、文化は多様、つまり、マナーも多様なのだ。

ナイフとフォークでライスを食べる時に、フォークの腹にライスを乗せるのはフランスのマナー、背に乗せるのはイギリスのマナーだ。これなど、日本では好みの問題だろう。

昔いた会社の保健師は、誕生日にプレゼントを貰ったら、うれしく無くても大袈裟に喜ぶのがマナーだと言った。

マナーは高度化すると人に好かれる、人から尊敬されるスキルとなり、社会階層の上昇につながるかもしれない。

一番困るのは、非喫煙者による喫煙者へのマナーの押付けだ。タバコは決められた場所で吸いましょうといいながら、決められた場所を削減して行く。これは暴力だ。

きれいごと。前に書いた通り、マナーは文化に固有のものであって、文化が異なればマナーも異なる。この多様性を認識することが重要なのに、優勢な文化はマナーを押し付ける。そしてこれは、排除の論理となる。

障害者世界にいる私が感じることは、この世界の寛容さだ。薬の副作用で涎を垂らしている私を、誰も避けようとしない。逆に言えば、私は一般世界を生きるのが難しい。これも、マナーのパラドクスだ。

人間を標準化する時代は終わった

明るく元気で、機敏でタフなパーソナリティ。20世紀には、こういうパーソナリティが持てはやされ、生来のパーソナリティとは関係なく、こういうパーソナリティを目指す動きがあった。教育もまた、特定の規範に従った人間を作ることに専心していた。その結果、増えたのがうつ病である。

精神病。そこでもまた、治療目標が規範に従うことであったりする。標準的な人間というものを想定し、その枠の中に人間を入れること。近年の発達障害などは、貴方は標準的な人間ではない治療の対象ですよという宣告だ。

しかし、人間を標準化しようとすればするほど、病む人が増え、標準から外れる人が増えた。

いま考えるべきは、人間に標準など無いということだ。一人ひとりが個性あるかけがえのないパーソナリティを持っているということだ。そこに優劣などない。優劣があると言うのは差別主義者だ。

時代は21世紀になった。精神科医療は大きく変化した。しかし、未だに標準化にこだわっている。つまり、精神科医療は時代遅れなのだ。もっとも、意識の高い精神科医はいる。健全な精神を持った医者もいる。しかし、圧倒的に少数派だ。

人間を標準化する時代は終わった。こう言い切れる時が来るには、まだまだ時間がかかりそうだ。