白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

神界へ

「神界へ」 白井京月

 

夢を見た。

グダグダイズムで成功を否定していた俺は

実は成功を渇望しているのだと知った

欺瞞か錯覚か

介錯が必要だ

そしていま、神界にアプローチしている

精神世界すら超越して

ある種の宗教的な世界へ

現世は捨てたのか

まだ分からない

シンクロニシティが起こる

そこからだ

愚者ということば

愚者の祈りは

聖者の喜びに変わるのか

夢で卑屈さが消えた

世界はどこへ向かうのか

坩堝から飛び出す時

世界は変わるのだ

愛の嫌疑

暇にまかせて回想する

愛した女たちのことを

そして、ふと暗い気分になるのだ

それは本当に愛だったのだろうかと嫌疑をかける

ああ、馬鹿だな

なんて真面目なんだ

ほとんど病気じゃないのか

そんなことは、どうでも良いんだよ

いや、良くないんだ

答など無いのに

欺瞞

ああ、なんて真面目なんだ

答など無いのに

愛に縛られた奴隷

輝き

いとおしさ

何を求めているのか

記憶は曖昧だ

いまさら

真面目過ぎるよ

真面目に読んではいけない

チョプラの本を読んでパニックになっていた。その本をなぜか神聖なテクストだと思い込んでいた。真面目に読み、実践した。ただ、途中でついて行けなくなった。そして、パニックになった。

私には信仰はない。聖典もない。自然な生き物として、ただ生きる。使命。そんなものは無い。あるとすれば、生きるとは楽しむことだという真理を実践すること。それだけで良い。

瞑想は悪くない。ただ、そこから高次の意識が得られるとか、霊からのメッセージが得られるという妄想(あるいは空想)は持たない方が良いだろう。もっと気楽に。ケ・セラ・セラだ。

コンビニに行って角ハイボール濃いめを買ってきて飲んだ。この味が私の定番だ。この味が良いのだ。1日208円+税。喫茶店のアイスコーヒーより安い。これが、今の私の一番の癒しだ。ただし、飲み過ぎはしない。1日に350ml缶を1本。それだけだ。

瞑想は続けよう。ただし、カジュアルに行こう。ありもしない、あるいは険しい真理などとは無縁でいよう。

私は、いつだって幸福だ。

 

中庸とは何か

昨日、本を読んでいた。

そこに「中庸」についての記述があった。

一つの大河があると思いなさい。一方の岸には快楽がある。一方の岸には苦痛がある。多くの人が、快楽と苦痛を行ったり来たりする。中庸とは快楽も苦痛も避けて河の中央を進むことなりと。

ハッとした。そんな中庸の解説は始めてだった。快楽もまた避けるべきものなのか。心に沁みるものがあった。

同じ本に、恨みや怒りを完全に消しなさいと書いてあった。それが修行であり、意識のステージを上げて行くのだと。なんともスピリチュアルだが説得力がある。

本は読み終えた。あとは実践だ。

視界は開けたのだろうか。

願望、いまはまだそれすらも未整理だ。

ゆっくりと急げ。

迷ったときは運命を信じなさい―すべての願望は自然に叶う

迷ったときは運命を信じなさい―すべての願望は自然に叶う