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利他的という美学

自民党の石破茂氏と評論家の宇野常寛氏の対談「こんな日本を作りたい」(太田出版、2012)を読んだ。いまごろなぜこの本を読んだかと言うと、宇野常寛という人物とその活動に強い関心を持っているからだ。内容は多岐にわたるが、一番印象的だったのが石破氏が利他性について述べている箇所だ。

 

一つ言えるのは、人は自分に余裕がないと決して人に対して優しくなれない、ということです。それは間違いない事実だと思う。環境が整わないと、利他性というものは生まれない。「衣食足りて礼節を知る」という話ですが、人に対して親切であろうすれば、自身に余裕がなくてはダメなのです。だから、人に親切であるために自分の能力を磨かなければならない、ということです。

 

一瞬なるほどと感動した。ここでいう余裕とは精神的なものではなく経済的ものであることは、衣食足りて、の一節からうかがえる。俺には余裕がない。だから利他的になれない。いや、余裕があった頃も利他的ではなかった。いや、あんな利他的な行動もしたか。などと自己をふり返った。

 

しかし、どこか引っかかる。利他的であることは正しいことである。ただし余裕がなければそれは出来ない。そして余裕を作るには自分の能力を磨くしかない。この論法は妥当だろうか。

 

利他的な行動をとるのは人間に限った話ではない。生物には利他的な遺伝子というものがある。調べてみると進化倫理学の分野で利他性についてのいろいろな研究がされていることもわかったし、ブロガーの池田信夫氏が社会学的知見から「偏狭な利他主義と寛容な利己主義」というエントリーを書いていることも知った。利他性は道徳の専売特許ではない。

 

石破氏の信条は美しいし、立派だと思う。確かに余裕がある人の方が利他的でありやすい。しかし、経済的に余裕のある人が皆、利他的ではないし、余裕のある人が自分の能力を磨いたからだとする因果なり相関なりは印象に過ぎない。

 

そもそも、優秀な人の多くは努力しただけでなく、優れた能力と恵まれた環境の二つが揃っていた人だ。もっとも、一般大衆は恵まれない環境から成功した人の話を好むが、それは例外的なことだからだ。

 

石破氏の言う利他性はノブレス・オブリージュに通じるものがある。それは自分への戒めとしては立派だが、だから皆も努力して立派な人間を目指そうとか、余裕のない人間は利他的になれない、と言うのは違う。それは石破氏の信条であり美学に過ぎない。(これは批判ではない。この本を読んで私は石破氏をますます好きになった。もちろん意見の違いはあるが、議論の成り立つ立派な人だ。)

 

人間の魅力とは美学である。人はその美学に感動し共鳴する。それも突き抜けた美学にだ。

 

別のことも考えた。それは、利他的であることが成功の条件の一つだということ。俺は、成功という言葉は好きではないのだが、成功は好きだ。しかし成功しない理由は、成功者に対する嫉妬心が強すぎるからだろう。まあ、俺の話はどうでもいい。「まず利他的になりなさい。そうすれば人が集まり、どんどんとお金が集まる」という話もある。学術的には、そういうタイプの利他的行動も一般的だ。利他性の理由はいくつもある。

 

問題は利他の「他」とは何かだ。家族、会社、友人、顧客、地域、国民、弱者、世界、動物、生物、地球、宇宙、どれも他だ。いったいどれを優先するのか。それは人それぞれで良い。

 

さらに、勘違いの利他性というのもある。上司が部下にクラブでおごるような利他性だ。上司は好意のつもりでも、部下は迷惑という場合がある。うむ、脱線が多くなった。どうやらこのブログは利他的ではないようだ。