白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

このブログの位置づけ

昨年夏から、瞑想家になって、energy flowというブログにし、次世代文明研究所を廃止した。しかし、結局は瞑想もまた心理主義のスピリチュアルの危険があると悟り、深入りをやめた。そして、近日、詩集「愚者の祈り」を再開した。

 

はて、このブログの位置づけは何だろう。当初はシーサーでジャーナリスティックなことを書いていたもののアーカイブだった。それがカオスなコラム21の作業場となり、延長で次世代文明研究所になった。日日雑記も日記というよりコラムである。

 

私のオフィシャルブログはアメブロだが、クオリティはこのブログの方が高い。読者層もぜんぜん違うと思う。問題は、このブログをこれからどうするのかだが、基本的に雑多なまま行きたい。詩集も書く、書く気になればコラムも書く。

 

ブログを本にするという発想もあるが、本は売れないし儲からない。まあ、それでも「愚者の祈り」は本にする予定だが、このブログをそのまま本にするなど考えられない。ブログはブログ。そういうことだ。

 

読者の皆さんは、詩よりもコラムに期待されているのだと思う。しかし、最近は好奇心を失ってと言い訳をしておく。ただ、昨年のように突如書き出すかもしれない。計画は無いのだ。

 

「次世代文明研究所別館」と名前を変えたが、これが白井京月のメインブログだ。黒崎玄太郎は、姓名判断のネット査定で2900円と出たのでやめた。因みに、白井京月は1億円だった。

 

そんなことは、どうでも良い。これからも気分次第で書きますので、よろしくお願い致します。

愚者とは誰か

「愚者とは誰か」 白井京月

 

愚者とは何か。それは常に世界の外部に置かれる者、そして世界を知る者のことだ。あらゆる権力、あらゆる権威にとって、それは脅威であり邪魔者だ。愚者は道化という手法を用い笑いを味方にする。

愚者は、その霊的な力で真実を見抜く。そして無邪気に真実を語る。賢者は世俗に服従し真実を語らない。いや、賢者は真実を見ようとはしない者のことだ。愚者は見る。いまや喪失の危機に瀕している「見るという行為の力」を発揮する。愚者は自由に想像し、創造する。

愚者は悲しい世界の中で、まだ見ぬ愚者を求めて旅する。

パフォーマンスは宿命だろう。しかし、それは喜びではなく悲しみなのだ。愚者に力を与える場所。それは愚者たちによる対話の場でしかない。愚者はそこで、霊的な力を交換する。

愚者であることの自覚。それが、このムーブメントへの参加資格だ。さあ、愚者として、いきいきと生きよう。運命を受け入れよう。その、特異な力を磨こう。

闇の法の受刑者

「闇の法の受刑者」 白井京月

知的障害者を可哀想と言った知人に
それは失礼だと怒ったことがある
しかし、今
私は可哀相だと思ってもらいたい
私の辛さを感じて欲しい
弱くなったのか
素直になったのか

闇の法の受刑者となり
闇の中を生きている
自由がない
通信も、移動も、消費も、仕事も制限される
罪のない受刑者は
生きているとは言えない状況の中で
隔離されている
またの名をセーフティネット
またの名を精神科医

無法地帯に落ちたのだ
ただ、足を滑らせただけ
闇の刑務所の実態など
表に出るはずもない

刑を終えても
刻印は残る
世界は一変する

いつか誰かが書くだろう
今はまだ、誰も書けない
世界に戻るまでは
誰かが世界に戻るまでは

涙は奇跡を起こすだろうか

川を流れながら

「川を流れながら」 白井京月

ひとつの歴史にこだわってはいけない
川がいくつもあるように
僕たちは同じ川にいるようでいないようで

僕たちは同じ世界にいるようでいないようで

だから身体は一つだけれど
脳は物理で語れない
不思議だ脳

さあ、走ろう
さあ、服を着替えて
さあ、靴を履いて外に出て
さあ、さあ、さあ、ジャパン

ゴールで待っているのは誰
シャンパンは冷やしておいてね
一口だけじゃ嫌だからね
インタビューはそれからにしてね

歴史はいくつもあるというのに
一つだと思い込んでいた私

ああ、バカバカしい
どうでも良いことなんだよ
どうでも良くないんだよ

一つの歴史だとしても
見る角度はいろいろで
みんな全然ちがう景色を見ている
みんな全然ちがう世界を見ている

だから、だから、身体
なにかを共有したいから
物理的に身体だから
だから、だから、身体

川を流れながら身体
だから川を流れながら