白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

欲望進化論

■欲望と欲求

その昔、人間を「本能の壊れた動物」と定義した人がいた。人間以外の動物は本能で行動しており、欲求はあっても欲望はないとされていた。そして、人間だけが欲望を持つのは言語を獲得したからだと。つまり、人間においては欲求と欲望を区別することはできない。空腹を満たすための食事なのか、贅沢という感覚を味わうための食事なのかは分けることができないのだと。

しかし、最近の動物行動学の研究は、このように人間が特別であるという観念をどんどんと覆している。動物にも文化や欲望はある。そもそも、このような現象を限られた言語で説明することすら、現代においては滑稽なのかもしれない。人類は、言語という壁を越えて、新しい情報処理手段へと向かっているのではないのか。

端的に言えば、欲望は欲求を包含する概念である。欲求が自然で、欲望が過剰だなどというレッテルを貼ることには意味がない。これは自然と人工物を分離させる発想と同じだ。人工物もまた自然の一部として理解すること。そうすれば、欲望もまた自然な現象であり、生物学的あるいは進化論的に扱うことができるようになる。

 

■生きたいと願うのは、欲望があるからだ

最近、野崎まど氏の「know」というSF小説を読んだ。舞台はコンピュータと脳科学が発達した2081年。単純なプロットとわかりやすい文章だが、扱っている内容は哲学的でもあり、社会的でもある。作者については謎に包まれているのだが、根本にある問題意識は「すべてを知りたい」という欲望だ。小説の近未来には膨大な情報に直接アクセスできるような装置が脳に埋め込まれる。あり得ない話ではない。現在のスマートフォンなどは、それの初期バージョンかもしれない。

5月24日のエントリーで私は次のように書いた。

確かに50を過ぎてもスマホやiPadを利用している人はいくらでもいる。しかし、それらの利用法がソーシャルネイティブと旧世代では根本的に異なっているのだ。

旧世代は、それらをコミュニケーションや情報取集のツールとして、あるいはゲーム機として認識している。しかし、ソーシャルネィティブの場合、それは自分の脳の一部であるとともに、図書館であり、ノートであり、ツールとなっている。操作する速度も扱っている情報量も圧倒的に違う。そして何よりも思考回路そのものが違う。これはもはや旧世代(私を含む)が努力して追いつけるような世界ではないなのだろう。

情報通信技術の革新は、情報処理と思考の様式を一変させたし、今後さらに大きな変化が起こることは間違いない。

ただ、野崎まど氏の小説で気にかかったことは、欲望が「情報と知識」に極端に偏っていることだ。小説の中に「人が生きたいと願うのは、もっと知りたいという欲望があるからだ」という意味の文章がある。たしかに、そういう人もいるだろう。しかし、欲望が「知りたい」ということに限定されるのはなぜなのか。いろいろな欲望(名誉、富、快楽、勝利、達成、コミュニケーション、安全、平和、発見、創造・・・)の中で「情報と知識」が特権的なものとして最上位に扱われることに違和感を持った。これは作者の個性なのか、創作上の問題なのか、あるいは時代の風潮なのか。

時代には、その時代に固有の欲望がある。歴史は繰り返すという言葉もあるが、現代文明は人類史のルビコン川を渡ったのではないのか。欲望の変化は、生活様式を大きく変えるだろう。それは、必然的に経済、社会、権力の構造や制度の変化を促す。

現代の欲望を分析すること。これは個人的な問題である以上に、大きな学術的課題だと考えられる。

 

■欲望と権力

ドゥルーズは、フーコーが「知への意思」で示した権力論に対し猛烈に反論した。簡単に言えば「権力を抑圧するものと抑圧されるもの、支配するものと支配されるものという図式で見ている限り、この構図から抜け出すことはできない」としてフーコーの権力論をバッサリと切り捨てた。そして、ドゥルーズは「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためでもあるかのように、自ら進んで従属するのか」という問いを引き出した。そして、多くの人は従属することを欲望しているのだと指摘した。つまり、人々の欲望アレンジメントを前提として権力様式が決定されるのだと。

フーコーが間違いで、ドゥルーズが正しいということではない。現代思想は、真理など存在しないという前提で、思考のモードを、思考の方法論を生み続ける。それは探究というよりも作業であり、格闘であり、ゲームに近い。

ドゥルーズの理論からすると、私たちの欲望アレンジメントが変われば、権力様式も必然的に変わることになる。欲望を分析せよ。それが、ドゥルーズ=ガタリからのメッセージなのだ。

 

■文明と欲望

文明の文法は人々の欲望の基底を支配する装置だ。帝国が言語学に熱心なのは、この文法を操作することで、人々の欲望を操作できるからに他ならない。言い換えると、私たちは意識することなく欲望を押しつけられている。これは、ありふれた陰謀論などではなく常識に属する事実だ。

もちろん、60年代ニューエイジのカウンターカルチャーのように、「本当の自分を生きる」といった精神論的な短絡に進む必要はない。時代を生きる中で、文明の文法に正面から反逆するなど馬鹿げている。そうではなく、文明の文法や社会の構造を理解したうえで、従うべき部分と、そうでない部分を切り分け、与えられた自由の中で自らの欲望をアレンジメントすることだ。なお、欲望のアレンジメントとは複数の欲望の要素を組み合わせることであり、欲望に自覚的になるという意味である。

確かに情報通信技術の革命は「情報、知識、思考」の概念を大きく変えたし、今後も変え続けるだろう。それはまた権力の道具にもなるし、利益の源泉にもなるに違いない。

しかし、私たちの欲望は、それほどに「情報や知識」に偏っているのだろうか。むしろ、情報化という空気の中で、新しい欲望を押しつけられているだけではないのか。

何を欲望するのか。それは個性と言ってもよい。活動的な人もいれば、のんびり過ごすのが好きな人もいる。趣味も価値観もそれぞれ違う。

重要なのは、ある程度の妥協は必要としながらも、欲望の押しつけという罠を見抜き、真の欲望に従うことではないのか。そうすれば、生活が変わる。生き方も変わる。

真の欲望に自覚的になった人が増えてくることでしか時代は変わらない。逆に言えば、権力が押しつける「新しい欲望」に隷従するのであれば、いつまでも権力の様式は変わらない。一見、権力の主体や構造が変わったように見えても、本質にある権力の様式が変わることはない。

まずは、自分自身の「欲望進化論」を書くことだ。

 

■欲望に先行するもの

「欲望進化論」を書く前に、脳の報酬系について少し触れておきたい。脳の構造から考えて、生理的に快的な状態を維持することが何よりも重要だ。これは無意識(言語化以前)に属しているのだが、言語領域に偏った脳になってしまうと、生物に共通する報酬系が機能しなくなり、精神的に不安定な状態になる。人間は、いうまでもなく生物だ。社会的あるいは人格的に価値のある欲望だけではなく、食べる、寝る、運動する、人と会話をする、自然と親しむ、といった基底となる活動を軽視しない方が良い。

演技ではなく、いつも明るく楽しそうにしている人がいる。そういう人は、この基底にある脳の報酬系が健全に機能しているのだろう。そしてこの問題は、知能や地位などとは関係がない。

偉そうなことを書いているが、これは私の過去に対する反省でもある。思えば30代の頃は仕事に夢中になり過ぎた。今となっては恥ずかしい価値観を支えに頑張っていた。これは後悔ではなく、ただの感慨だ。いまは生理的な欲求を満たすだけの気ままな生活を送っている。「私の欲望?」それは機会を見て改めて書くかもしれない。