白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

人生観の揺れ具合について

人生観。そんな難しいものに興味はないね。そういう人も少なくないだろう。しかし、そんな人でも言語化、体系化されていないだけで人生観を持っているのではないか。それとも、本当に人生観を持たずに生きているのだろうか。

 

誰がどんな人生観を持とうが自由である。他人がその人生観は間違っていると言ったところで、何が変わるだろう。立身出世のために日夜努力するなんて馬鹿げていると言うのは自由だ。しかし、馬鹿げているのが人生かもしれない。いや、人生は多様だ。馬鹿げていることもあれば素晴らしいこともある。一面からみたらつまらなくとも、別の面から見たら面白いかもしれない。

 

多くの人が人生を意識して生きている。10年後、20年後、老後を考える。もちろん、考えない人、考えられない人もいる。考えるのは、余裕のある人だ。

 

私は何者なのか。私はどう生きるのか。成功者と言われる人の人生観は概ね揺れない。それに対して、普通の人々は人生観が揺れ続ける。宗教を転々とする人もいる。

 

なに、私の人生観がだって? 「訪れて去って行く喜びや悲しみを感じること。それが人生」これが十代のころの台詞。いまは、社会とどう関わるのかということで、大いに揺れている。従属、抵抗、建設、連帯、感謝、嫌悪。諸々の情念も重なって、私は今、社会のどこにいるのかが分らなくなっている。

 

教育システムに洗脳された人たちはよく働く。低賃金でも頑張る。賃金に応じた仕事をするというのが国際標準なのに、賃金以上の仕事をする。労働か。つまらないね。享楽の話をしようよ。人生とは享楽だ。そういう人生観もある。しかし、より多くの享楽を得るには、それなりの社会システムがあった方が都合がいい。社会のために個人があるのではなく、個人のために社会がある。そして、社会に貢献した個人は称賛される。本当か?

 

しかし、今の社会はマトモだろうか。街にはスーツを着て目が血走ったような連中でいっぱいだ。仕事なのだろうが、何を必死になっているのか、命懸けの形相だ。私も数年前まではそういう連中のいちみだったのだが、実に悲しい。見ていて憐れで、可哀想だ。そして夜は元気に酒でも飲むのだろう。どこにも人間らしさを感じない。マテリアルなものばかりで、スピリチュアルなものを感じない。

 

私の人生観も揺れている。社会と強く関わり、いろいろと発言してきた時期もあった。しかし、それほど社会と関わっても何も変わらないように思えてきた。もっと言うと、馬鹿馬鹿しくなった。辻潤ほどには社会から離れられないだろうが、もう少しポジションを考え直そうと思う。私が日本の社会システムに対して影響力を行使できるはずが無いじゃないか。

 

ああ、文明の文法を解体するんだったな。人工知能は哲学を作れるかだっけ。いや、哲学は100年も前に死んだんだっけ。今では人間が正義や倫理を人工知能脳科学に委ねようとしているね。危険だね。そのうち、人生観も人工知能に委ねるのかな。いろいろと質問して、貴方にはこの人生観が良いとかね。あ、教育とやらが既にやっていることか。

 

おかしいいな。グダグダ主義とは、人生に意味や目的を持とうとしないことだ。人生なんて、時代時代で変わって行くのさ。

 

しかし、人生観が揺れるというのは、しんどいことだな。生活に追われている人には縁のない話なのかな。押しつけられた人生観に縛られて働き続けるというのも悲しいな。本人はそれで幸せなのかな。まあ、そういう人生観は一度揺れるとポッキリ折れるんだよな。おれのグダグダ主義も不徹底だな。しかし、徹底できたらグダグダとは言わないな。なに、矛盾している? そんなもんでしょ。