白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

私は昔から瞑想家だった

2年と少し前、私は「新しい物語」という詩を書いた。

もう、人生に物語はいらない。喫茶店でアイスコーヒーを飲んで煙草をふかしている日常があればそれで良いと書いた。

私はいつも、そうしていた。本や新聞を読むでもなく、スマホをいじるのでもなく、ただぼーっとしているのが好きだった。いま思うと、これが瞑想だった。これが真我だった。

想念が乱れないこと。私は10代の頃から瞑想家だったのだ。

ただ、これが崩れることがあった。その要因が楽しさと忙しさだった。つい、何かに夢中になる。節度が守れなくなる。課題は熱狂の克服、節制ということだろう。

悟りを得てからも修行は続く。

瞑想家に終わりはない。

修行環境のちがい

パソコンが帰って来た。

マハルシにつていて考えている。真我はよくわかる。自己という虚構の想念を捨て、一つの想念で安定させること。これが理想なのか。

しかし、前にも書いたが低次の部分もおろそかにしてはいけないのだろう。昔は貧困でも食べて行けたが、20世紀という人類史上最悪の飢餓と貧困の世紀の中では、お金を無視することなど不可能だ。

マハルシの時代とは違うのだ。マズローの欲求6段階説も低次から高次へというモデルであり、一見、瞑想とは関係ないようでも、重要なポイントのように思えてきた。

つまり、凡人が悟るには、ある程度の経済的成功が必要になるということだ。

経済的に不安であっては、瞑想どころではない。そういう世の中なのではなかろうか。

グルは、私のこの見解に何と言うだろうか。大いに楽しみだ。

瞑想の環境

瞑想の環境って何だろう。

瞑想は、慣れてくると、いつでも、どこでも出来る。

問題は多忙だろう。

私もここ1週間、瞑想が出来ていなかった。ネットのやり過ぎだ。そこで、PCを定期保守に出すことにした。2週間ネットを離れる。もっともスマホは持っているのだが、基本的に外でネットをやるのは好きではない。

思えば、私は喫茶店でアイスコーヒーを飲んで、タバコを燻らせるのが大好きだった。あれは瞑想だったのだと今、思う。

そういう訳で、2週間ちょっとブログの更新は出来ない。お知らせまで。