私は昔から瞑想家だった
2年と少し前、私は「新しい物語」という詩を書いた。
もう、人生に物語はいらない。喫茶店でアイスコーヒーを飲んで煙草をふかしている日常があればそれで良いと書いた。
私はいつも、そうしていた。本や新聞を読むでもなく、スマホをいじるのでもなく、ただぼーっとしているのが好きだった。いま思うと、これが瞑想だった。これが真我だった。
想念が乱れないこと。私は10代の頃から瞑想家だったのだ。
ただ、これが崩れることがあった。その要因が楽しさと忙しさだった。つい、何かに夢中になる。節度が守れなくなる。課題は熱狂の克服、節制ということだろう。
悟りを得てからも修行は続く。
瞑想家に終わりはない。
修行環境のちがい
パソコンが帰って来た。
マハルシにつていて考えている。真我はよくわかる。自己という虚構の想念を捨て、一つの想念で安定させること。これが理想なのか。
しかし、前にも書いたが低次の部分もおろそかにしてはいけないのだろう。昔は貧困でも食べて行けたが、20世紀という人類史上最悪の飢餓と貧困の世紀の中では、お金を無視することなど不可能だ。
マハルシの時代とは違うのだ。マズローの欲求6段階説も低次から高次へというモデルであり、一見、瞑想とは関係ないようでも、重要なポイントのように思えてきた。
つまり、凡人が悟るには、ある程度の経済的成功が必要になるということだ。
経済的に不安であっては、瞑想どころではない。そういう世の中なのではなかろうか。
グルは、私のこの見解に何と言うだろうか。大いに楽しみだ。