白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

17.言葉はどこまで自由か

考えるとき、ヒトは言葉を使う。私の場合は日本語を使う。世間では自由な発想力、そして豊かな表現力が素晴らしいこととして称賛される。私もそれを素晴らしいと思う。ところで、自由な発想、自由な思考という場合に、いったいどこまで自由なのかという限界がとても気になる。

言語、文法、単語。それれが制約になることは誰にでもわかる。また、それらは生き物であり、時代によって、あるいは地域などによって変化して行く。それだけではない。時代にはそれぞれ特有の態度というものがあり、気がつかないうちにヒトはその枠組みに沿って考える。

20世紀の思想家であるイバン・イリイチは、生産、効率、生命、システム、成長、開発といったものに価値を置くのは20世紀以降に生じた異常な考えだとして、それらを嫌悪した。キリスト教における七つの大罪が、いまでは七つの美徳になったという人もいる。一つの時代を生きているということは、その時代に特有の態度を共有するということだ。少なくとも一般人はそれに適応することで生きて行くのである。

しかし、芸術家や思想家、哲学者といった人々は言語の枠を、そして時代の枠を超えようとする。あるいは、科学者、研究者、マーケッター、起業家なども、新し何かを求めて突き進むという点では似ているかもしれない。求めているのは、新しい概念であり、新しい文法だ。そこには、自由の限界を超えようとする運動がある。

パスカル・キニャールの「音楽への憎しみ」という本の中に、「ヴェーダの文献に見られる奇妙な計算によれば、神々の言葉に付加された人間の言葉が表現しているのは言葉全体の四分の一でしかないと見積もられている。」という一節がある。その通りなのだと思う。私たちは現在用いていることばが十全だと思いがちだが、それこそが勘違いなのではなかろうか。

ものごとを考えるときには、言葉に染みついた特有の観念に気をつけないといけない。短絡的に、自然は素晴らしい、成長は素晴らしい、成功はすばらしい、などと決めつけてはいけない。言葉の影を見ること、言葉の裏側を見ること、そういう姿勢を持つことで、思考力や表現力は磨かれて行く。

言葉は自由ではない。むしろ、人は言葉によって拘束されている。「勤労は美徳だ」とみんなが言えば、それは正しいことだとされる。これは単純な例だが、いろいろな価値観が単純なスローガンで一色に染められていることは珍しくない。国連も、国家も、企業も、そういう言葉を開発し浸透させることに注力しているのだから。

現代ではそれらに音楽や映像が加えられて情動系に作用するように設計されている。ひとつのコンテンツを大量に、そして繰り返し与えることで、サブリミナル(潜在意識)の領域を刺激してメッセージを刷り込んで行く。そこにはもはや、言葉による自由な思考はない。メディアの発達とは、こういった洗脳技術の発達でもあるのだ。

もちろん、私自身も洗脳されている。ただ、できるだけ自由でありたいとは思うし、どう洗脳されているのかを知りたいとも思う。そこには危険な側面もあるだろうが、思考の、そして言葉の限界を知っておくことは重要だろう。

洗脳しようとするのは権力や体制だけではない、反体制も同じことだ。「クール・ヘッド、ウォーム・ハート」という言葉がある。頭は常にクールでありたい。そうすれば、馬鹿げた言動はしないはずだ。そこにはいつも、慎みがあるのだから。

(2013年7月4日)