白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

適応が正常だとは言えない

この狂騒の現代社会に適応していることが正常だって?

とてもそうは思えない。

メンヘラこそ正常なんじゃないのか?

ああ、俺は適応したから異常になったんだ。

嘘だ。適応できなかったんだ。

過剰適応という便利な言葉がある。

ところで正常って何だい。

自然に正常も異常もないと言ったのは俺だ。

人工には正常と異常があるということか。

文明。権威。戦争。狂気。

すべての道は狂気に通じる。

人間的自然という矛盾。

世界は事実上カオスである。

メンヘラ万歳。

楽しいことをしましょうよ

相変わらず、好奇心と集中力を失っている。毎日、やることが無い。未来も見えない。絶望的な空虚さの中で、喚き、喘いでいる。

もちろん知能は回復しない。とにかくこれは、精神科の薬の影響だ。エビリファイリスパダールインヴェガなどなど、9種類飲んでいる。それも大量にだ。

とにかく一日やることが無い。食べ物と飲み物を買いに行くくらいだ。やらなければいけないことは何もない。時間はある。やりたいことが無いのだ。

今日は電話で、散歩でもしたらどうですか、と言われた。とにかく楽しいと感じられることをすれば良いと言われた。ただ、それは無理なのだ。楽しさを感じる脳内物質を薬でブロックしているのだから。

研究所のホームページに集中してはどうかという意見ももらった。テーマは次世代文明なのか、貧困と障害なのか。頭がまとまらない。とにかく知能が低下しているのだ。回復の目途は無いのだ。悲しい。

最近のホームページでは、素振りブログが飛んでいる。書いているのは私ではない。研究所員のブログだ。素振りブログだけに、よく飛ぶ。

ああ、私の日常の話だったな。やることの無い日常。通院して、ヘルパーさんが来て、訪問看護師さんが来て、地域活動支援センターに行って、明日は歯医者。

ああ、ヤンキー・ヘルパーが紅茶を飲みタバコを吸い、食事をして帰ることでも暴露しておこうか。

それにしても寝るまでの間がもたないな。夕食は未定。私はグルメだ。ただし、お金がない。これが貧困と障害の現実だ。どうだ、当事者研究になっていないか? まだ浅いか。深さが無いか。

世界と意味。私は意味の無い世界に連行された。その世界がどんなものなのか、私はまだ分かっていない。当事者研究は続くということか。

2018年の正月

父も母も生きている。それも5キロ圏内に住んでる。なお、父と母は離婚しており、父には新しい妻がいる。不思議なことに、調停の結果、父の実家に母が住んでいる。

正月、私は父にも母にも会わなかった。実家は縁起が悪いし、父の家には上げてもらえないのだ。

私は4年前に離婚して一人暮らし。正月の夕食はコンビニおにぎりだった。

3日の夕方友達が来た。それでも田舎で店が開いていない。夕食はコンビニの麻婆丼だった。

そんなことはどうでもいい。問題は新年の抱負とか、そういうことだろう。無い。そんなものは無い。救急車で搬送されないこと、死なないこと。それくらいしか浮かばない。あとは、発狂しないことか。まあ、無事これ名馬ということで。

知能の回復が待たれるところだ。ああ、男性機能の回復は今年のテーマだと主治医は言っていた。

知能、回復するのだろうか。お馬鹿な電話相談員が相当な努力が必要と言っていたが、そういう問題ではまったく無い。ばーか、ばーか、と言ってやった。謝っても遅い。クビにしてあげると言っておいた。

惨め。書けば書くほど惨めになる。いい歳して、何をやっているんだ。瞑想の方が良い。

障害者として生きる

日本には各地に地域活動支援センターという障害者の居場所がある。通称、地活。内容も雰囲気もいろいろだが、行政が枠組みを決め、助成金で運営されている。

私も今年の夏から、ある地活に行くようになった。これがまた居心地がいい。障害者ばかりということで安心感がある。同じ苦労をしているということで仲間意識が生まれる。それはそれで良いことだと思う。

しかし、一方で一般世界を避ける傾向が出てきた。一般世界で過ごすのが辛いのだ。これはきっと問題だ。

障害者世界と一般世界という区分を嫌う人、認めない人もいる。障害者世界も一般世界だと抗弁する。しかし、現実に障害をカミングアウトすることで、立場は決まってくる。

甘えかもしれない。いや、しかし無理はできないのだ。現実問題として、障害者として生きるしかないのだ。問題は、どう生きるかだろう。

2017年は何とかやり過ごせそうだ。2018年も無事であって欲しい。多くは望まない。よいお年を。