白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

感動中毒とは思考停止である

いつの頃からだろう、やたらと「感動」という言葉が使われるようになった。

 

「感動しました」

「感動を与えたい」

「感動していただいて嬉しいです」

 

しまいには、感動が脳に良いなどという脳科学者も現れ、エンターテイメント産業だけでなく、あらゆる企業が「感動」をキーワードとした戦略を展開している。いまや「感動」は人生における最大の価値となった。

 

だが俺はこの風潮を好まない。そもそも感動とは稀であるから素晴らしいのであって、一日に何度も感動するというのは、いったいどんな生活をし、なにに驚いているのか理解できない。

 

共感もそうだ。ピンカーが「人間の本性」で指摘した通り、共感とは基本的に稀であるところに価値があるのであって、誰とでもすぐに共感できるなどといのは、心を悪魔に売り渡した詐欺師の精神構造だ。端的に言えば、常に満たされているならば、そこに幸福という概念が生じる余地は無いのだ。

 

さらに最悪なのが、「私は感動できない。私は共感できない」と言って悩む人がいることである。ちょっと待て、それが正常なのだ。異常な風潮を信奉するのはとても危険なのである。

 

感動という言葉が、あまりに安く使われてしまったことで、本当の感動が失われてしまった。そして、小さなことにでも感動しようという現代の教義は思考停止という状態を招く。あれもイイネ。これもイイネ。完全に反対の見方や意見のどちらにもイイネ。つまりは、どうでもイイネ。ただのバカだ。

 

世間には感動中毒の傾向を持つコミュニティやグループがいくつもある。そういう輪に入ってしまうと、思考も批判も禁止される。俺も、そんな同調圧力を何度となく感じてきた。世間とはそういうものかもしれないが、そこに染まると感動中毒になる。そういう集団からは距離を取るか撤退するべきだろう。

 

なに、今の職場がそれだって!!

真剣に転職を考えよう。

そんな会社に未来はない。