白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

お気楽革命の時代(2)


2012年09月21日(金) 11時47分18秒
テーマ:壊れキャラ時代

昔から、お気楽は三文の得という。まあ、お気楽は損得にこだわらないので、何が得なのかはどうでも良い。ああ、今日もバカなこと書いてるなあ。よくこれだけ、バカなこと書けるね。それって才能?

そうなのだ、こんなブログに毎日100人もの人が来るのだから驚きだ。こうなったら、日本一おバカなブログを目指してはどうか。そんな声が聞こえてくる。きっと、幻聴だろうな。

私のブログの特徴はモバイルからのアクセスが無いこと。これ、真面目に理由の分かる人は教えて欲しい。ところが昨日は70ほどモバイルからのアクセスがあった。これも原因不明。どうしてなんだろう。

お気楽は健康に良いと思う。お気楽に生きると将来が不安になると思われるかもしれないが、その心配はない。お気楽だからだ。

つまり、中途半端なお気楽はキツイ。お気楽は揺れても良いが、揺れ過ぎてはいけない。加減が難しい。お気楽スマイルをキープしないと。

そんな訳で、今日は出掛けることにした。お気楽検定を受けてくる。結果は後日ね。


お気楽十箇条

 

2012年11月05日(月) 22時01分38秒
テーマ:壊れキャラ時代

■その1
まず、看板を出すこと。お金がないので、アメブロのブログで十分。まあ、お気楽にはその辺りが相場だろう。

■その2
研究といっても深刻に考えたのではお気楽にならない。学会のジャーナルに寄稿するなどという面倒なことはやらない。お気楽にはその辺りが相場だろう。

■その3
お気楽とは「成熟した、しなやかな大人の構え」のことだ。しかし、所長がまだお気楽として認知されていないという現実がある。これを問題視することはタブーだ。お気楽で行こう。

■その4
基本的に布教活動はしない。お気楽になりませんか、と声は掛けない。ただ、お気楽になりたいな、という人が自然に集まるのが理想。戦略なんて、お気楽じゃないよね。

■その5
研究所は階層型組織ではない。リゾームだ。なに、リゾームが分からない?興味があればググって欲しい。まあ、お気楽で行こう。

■その6
お気楽は能天気ではない。自信と謙虚さがその持ち味だ。だから私も、いつか画期的な「お気楽論文」が書けると信じている。もっとも、構想は未だない。

■その7
世の中は広い。中には私に会いたいという人がいるかもしれない。私もそういう人が入歯、いやいやいれば会いたいと思う。人生とは出会いだと思う。

■その8
ストレスは大敵だが、ストレスがまったく無いというのもストレスだ。お気楽にもそれなりの緊張感はある。常に幸福では幸福は感じられない。お気楽はこのパラドクスを熟知している。

■その9
お気楽はユーモアを忘れない。ユーモアこそが、人生を美味しく生きるこつだ。お気楽な人生は美味しい。美食は許されて当然だ。

■その10
お気楽といっても、いろいろなタイプがある。お気楽にも多様性は大切だ。お気楽が一人いるだけで場は和む。そういう存在を目指したい。

日本人はとかく暇を嫌う。「小人(しょうじん)閑居して不善をなす」が強調されるが、その後に続く「大人(たいじん)閑居して善をなす」はあまり言われない。お前らは凡人で小人なのだから忙しく働いておけば良いのだ、という言い分を従順に受け入れているのだ。
 しかし、お気楽系は違う。お気楽系は大人である。いや、人は皆、根本的に大人だと考えている。そして大人にとって最も大切なものが閑暇なのだ。閑暇をどう過ごすか。これこそが人間的営為の結晶であり、最も貴重な、味わい深い時間なのだから。
 でもね、暇があってもお金が無いと楽しくないし、働かないと食べて行けないし・・・と考える人もいるだろう。あるいは、お気楽系なんて金持ちだからこそ言える戯言だと思っている人もいるかもしれない。だが、真相は違う。私の知っている生活保護受給者は、数本の煙草と1本の缶コーヒーで会話を楽しみ、毎日を豊かに過ごしている。物質的な豊かさよりも、閑暇という時間的な豊かさの方が、どれほど精神的に稔り多いことかと嫉妬してしまうくらいだ。
 なにも、生活保護制度の利用を勧めているわけではないが、私にはワーキングプアが理解できない。さらに、政府が雇用促進に力を入れ、社会保障をおろそかにするのには大反対である。「働かざるもの食うべからず」という考え方は、ワークフェア(workfare=労働+福祉。福祉の受給に、労働ないし職業訓練を要件とする考え方)という、労働を懲罰的に使う最悪の思想と政策を生んだ。困った問題である。
 では、お気楽系は働かないのかと言うとそうではない。そういう問題では無いのだ。お気楽は、仕事の手を抜くかと言うと、それもない。要は、閑暇という豊かさが、物質的な豊かさよりも尊いということを知っているのだ。
 お気楽系は、仕事中毒になることもなければ、将来を悲観することもない。そして、何よりも「明日より今日が大切だという感覚」で生きている。
 現代社会は、いろいろな手段を使って脅しをかけてくる。勉強しないと、資格をとらないと、一生懸命働かないと、貯金しないと、大変なことになりますよ、と。その度に閑暇が失われる。はっきりと言おう。「そんな脅しに負けると、大変なことになりますよ」と。 閑暇は豊かさであるとともに美徳である。それには、将来の不確実性という対価を支払うだけの価値がある。

「お気楽」とは、脳天気のことではない。能天気な人に、能天気はおやめなさいと言うつもりもない。また、脳天気な人ならば、この文章を読むこともないだろう。「いや、私は能天気だ」と主張する人もいるかもしれないが、きっとその人は、本質的に能天気ではない筈だ。
 私の言う「お気楽」とは何か。それを厳密に定義してしまうと、それは「お気楽」ではなくなってしまう。そこで、曖昧にそれを示してみよう。
 「お気楽」から連想される言葉。それは、しなやかさ、自然な、自由な、生き生きした、みずみずしさ、と言ったものだ。あるいは、硬直的でない、奔放な、余裕があるといった言葉を付け加えても良い。定義として不真面目だ、と怒られるかもしれないが、真面目すぎない、というのもお気楽の特徴である。(言い訳だろうか?)
 さて、なぜ今、「お気楽」なのか。これは、現代日本社会を分析したうえでの一つの結論である。今、お気楽が不足している。そして、お気楽が求められているのだ。
 お気楽系が求められる背景には、以下のようなタイプの衰退がある。
  1.保守的な人生設計という考え方が破綻した。
  2.上昇志向の空気が薄まり閉塞感が漂っている。
  3.スピリチュアル・ブームにも陰りが見える。
  4.おたく文化も行き詰まりを見せている。
 生き方はいろいろあって良い。むしろ多様であるべきだ。しかし、生き方の選択を間違えると自らを苦しめ、人生を楽しめないということになりかねない。「お気楽系」も一つの選択肢。決めるのは自分自身だ。
 さて、そう言う私自身が「お気楽系」なのか、と問われると顔色が変わる。鋭い質問だ。実は、私もまだ完全には「お気楽系」にはなれていない。しかし、私は決断した。これからは、「お気楽系の時代」なのだ。私も「お気楽系」になってみようではないか。そのために、私自身が持つリソース、つまり知識や道具、時間やお金、人脈や肉体を使って、どうすればお気楽になれるのか、言い換えると、お気楽になるための<技法>の開発と整理に乗り出すことにする。
 それは、認識の技法、思考の技法、分析の技法、習慣化の技法、意思決定の技法、表現の技法、伝達の技法、捨てる技術、考えない技術、等々だ。これらを実践しながら整理すること。それは一つの実験と言えるかもしれない。
 ん。全然「お気楽」じゃなさそうだって?
 嗚呼。お気楽への道は遠いのか。(笑)

お気楽でいられるための一番の条件。それは自信だろう。では、自信とは何だろうか?
 ある事柄についての自信ならともかく、漠然と自信とは何か、と問われると少し考えてしまう。私ならこう答える。自信とは、多少状況が変化しても生きて行けるという見通しがあることだと。つまり、将来がたとえ予定通りにならないとしも、何とかなるという楽観的な態度。これが自信なのだと。
 もちろん、根拠があるかもしれない。健康であったり、技能があったり、対人能力に優れていたりといったことも要因になるだろう。しかし、同じような能力、要因を持ちながら、同じような状況にありながら、自信が持てる人と持てない人がいるのは何故だろうか。それは単に、性格の問題なのだろうか?
 答えはノーだ。自信は思考のトレーニングの賜物だと私は考える。適切な思考を積み重ねることこそが自信に繋がるのだ。逆に、誤った思考が悲観を生む。
 そうは言っても、自信と社会的諸条件の間には相関があると言われるかもしれない。しかし、これはどちらが原因でどちらが結果とも言い難いところである。つまり、自信があるからこそ、社会的諸条件が向上された、と見ることもできるからだ。
 さて、一番肝心な点は、適切な思考とは何かということだ。結論を簡単に言えば、それは、現状を肯定的に受け止めてから問題や課題を探すか、現状を否定的に受け止めて全てを問題だと考えるか、の違いである。もちろん、前者が適切な思考であり、後者の思考は生産的ではない。たとえ状況が悪くとも、生きているという現実は否定できない。できる限り、現状の良い点に目を向け、そのうえで問題の発見や改善、あるいはさらなる向上を考えるべきだと言えるだろう。
 世界は常に不条理に満ちている。不公平も不平等も存在する。賄賂も犯罪も残忍さもある。それは受け入れ難いものではあるが、まずは、良い点にも目を向けて現状を受容することだ。これは、社会についてだけでなく、自分自身についても同じである。ある程度の寛大さをもって現実を受容したうえで課題を設定しない限り、いかなる批判や抵抗も望ましい結果を生むことはないだろう。
 繰り返しになるが、お気楽の第一の条件は、適切な思考に基づく自信である。その基底には、現状の肯定的な受容がある。それは、決して批判精神を持たない事なかれ主義ではない。そうではなく、このような態度こそが、より本質的で鋭い批判や、意味のある問題解決を可能とするのだ。お気楽は決して利己主義ではない。