白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

三つの貧困と思想的バトル

生活保護社会保障、さらにはブラック企業ワーキングプアの話題が盛んだ。これについては、いろいろな考え方や立場があるが、まずは経済的貧困と時間的貧困という切り口から貧困を三つに分類した。

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まず、<貧困ー1>では、お金も時間もない。いわゆるワーキングプアなどがこれに該当する。所得水準と労働時間を具体的な数字で示すのは控えよう。この区分に何%の人がいるのか。それなりにイメージできるのではなだろうか。

次に、<貧困-2>では、お金はないが時間はある。つまり働いていないということだ。ニート生活保護年金生活者、障害者などがこれに該当する。

最後に、<貧困-3>がある。これはお金はあるが時間のない人々だ。極端に言えば、年収1000万円でも、年間労働時間が2000時間を超えるなどというのは時間的貧困と言えると思う。ただ、難しいのは仕事が楽しくて仕方がないような人々もいるので、労働時間だけでなく、内容についても判定基準にする必要があるかもしれない。

さて、<貧困-1>が社会的に見て問題であることに異論はないだろう。<貧困-1>は、<貧困-2>ないし<貧困-3>に移動することが望ましいと普通は考える。しかし、異なる考え方、いわゆるワークフェアという思想もあり、ここが大きな論点になってくる。

社会保障給付のあり方として、就労ないし就労に向けての教育を前提にしようというのがワークフェアという思想である。要するに「給付の代償として時間を差し出せ」という懲罰的発想だ。しかし、<貧困-2>の状態にいる人が働くことに経済的価値が本当にあるのだろうか。就労のためのコストと、就労によって得られる生産性を考えるならば、就労や教育を強制することにメリットがあるとは思えない。ワークフェアといのは、勤労を懲罰的にとらえ、その公平な分担を強制しようとする思想であり、そこにはなぜ働けないのかという想像力が欠けている。

高齢者や障害者を除いて考えても、現代の高度化した社会では就労に向かない人がいるのは仕方のないことだ。一定の割合で、社会的能力、職業的能力に欠ける人は存在する。こういう人々に勤労の義務を課すことが本当に正しいのか。あるいは経済的合理性があるのか。これは重要な問いだ。

憲法27条では勤労の権利と義務が謳われているが、現代の高度産業社会で勤労の権利を国家が保障することは難しい。そしてまた、勤労の義務も時代にそぐわない考え方なのではないかと俺は思う。

現政権は、<貧困-2>を悪と見立てて叩くことで、<貧困-1>ないし<貧困-3>にいる人々の不満や嫉妬心を和らげようとしているように見える。しかし、本当に重要なことは<貧困-1>を減らすことなのだ。つまり、問題がすり替えられているのである。

言い方は悪いが、能力の無い人間を教育し、補助金を出して就労を強制するなどというのは、財政面でもマイナスだし、労働を強制される本人にとってもマイナスだ。俺の考え方は異端なのだろうか? そして、今日は明示しなかったが、経済的貧困、時間的貧困の線をどこに引くのかという問題もある。数十年、数百年という単位で見るならば、勤労も雇用も義務ではなく選択できる時代になるのだと思う。需要もないのに雇用を作るなんてクレイジーなんだよ。