10.リチャード・ローティ

リチャード・ローティ(1931−2007)。最近なにかと話題のアメリカの哲学者だ。その思想を簡単に整理してみた。

■1 反形而上学

形而上学とは何かを知らない人はいませんよね? なに。いる?
ま、簡単にいってしまえば、形而上学というのは、道徳的なジレンマを解決する公式や真理があるという考え方です。道徳的なジレンマとは、めちゃくちゃ単純な例で言うと、ボートが沈没して5人が海に投げ出され、一人だけなら救助出来る場合、誰を助けるのか、助けないのか、といった問題ですね。普通に考えれば、そんなものは色々な考え方があるわけで、どれが絶対正しいなんて言えないですよね。でも、真理や正解は必ずあるというのが形而上学だと考えれば良いでしょう。

形而上学は哲学の一分野とされますが、多くの宗教が形而上学的なわけで、そう考えると、世界の圧倒的多数派は、形而上学を信じているともいえます。

一方、反・形而上学を主張する人とは、そう言った道徳的ジレンマを解決するような、真理や公式は無いと主張する人のことですね。ローティは、こういう人のことを、「アイロニスト」と呼ぶんです。皮肉屋という意ではないので気をつけてください。

■2 リベラル

昔は、左だ、右だ、中道だと言うのが大衆的な分類でしたが、今は使いませんね。(使いますか?)

今の一般的な分類は、以下の4つです。
1.リベラリズム(自由主義)
2.リバタリアニズム(自由至上主義)
3.コンサバティズム(保守主義)
4.コミュニタリアニズム(共同体主義)

おお、座標軸が出来て、線から平面になりました。もっとも、思想・信条あるいは哲学が、実際にはもっと複雑な事は、誰にでもわかりますね。「思想地図」という本もありますし、それに対する異論・反論もあって収集がつかないわけです。また、大枠での対立より、半ば身内での対立が激しかったりするのは、どこの世界でも一緒のようです。

でも、ちょっとまって下さい。こんな単純な分類の話がしたいのではないのです。

私がこだわりたいのは「リベラル」です。ローティはリベラルをどう定義しているでしょうか。ローティは、シュクラーにならって、「残酷さを最悪だと考える人がリベラルだ」と定義するのです。そして、残酷さを最悪だと考えることに形而上学的な理由などいらない、基礎づけなどいらないのだと。要は、自分はそう思うと根拠などなく主張して良いということです。はい。それがリベラルなんです。経済学者のシュンペーターも同様のことを言い、自らをリベラルだと宣言していましたね。

ローティは、自らを「リベラル・アイロニスト」と呼びました。私も「リベラル・アイロニスト」です。これって相当に解説のいる言葉ですね。(笑)

貴方は残忍さが好きですか?
残忍さは本能であり不可避だと思いますか? 
残忍さとは何ですか?
人類は歴史的に残忍でなくなっていると言う学者の説をどう思いますか?

■3 プラトン無視

流石にプラトンの名前を知らない人はいないですよね。義務教育の教科書にも出てきます。え。名前は知っているけど、忘れた? ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師ですね。です。流石にそれくらいは覚えてますね。

この時代の人達が試みた哲学というのは、共通の哲学的基礎を打ち立てて、個人の自立と、共同体の公共善を統一・結合させることでした。まあ、これは無謀な野心なのですが、哲学者というのは共通して、こういう無謀な野心に駆られるものなのでしょう。そして、それこそが哲学の存在理由の一つでもあったわけです。

もちろん、ニーチェやフーコーのように、道徳に懐疑的な哲学者もいれば、カントのような道徳的オプティミストもいれば、いろいろな哲学者がいたわけですが、みんなこの、「プラトンの呪縛」というべきものと絡んでいました。

しかし、ローティは違いました。私的なものと公共的なものを統一しようという考えを、「そんなの無理」とあっさりと捨て去ることで、プラトンを基本的に無視する立場を取ったのですね。何と革新的なのでしょう。これこそ私が、ローティ以降を「哲学2.0」と呼ぶ理由なんです。

で、現代はどういう時代かというと、ポストモダンと言われながらも、市民レベルでは未だに「プラトンの呪縛」が幅をきかせています。残念ですね。

■4 方法を持たないプラグマティズム

アメリカの哲学と言えば、プラグマティズムですね。「プラグマティズムこそアメリカの哲学」。これは1950年以前のアメリカの決まり文句でした。しかし、次第にアメリカも大陸哲学に傾いて行くのですね。

で、アメリカ社会でプラグマティズムがどう機能したのか。ローティはこう見ます。

因習の殻を破り新しいものを受けいれることを奨励すること、宗教文化を振り払い自由にすること、道徳律の影響を抑え新しい立法を恐れないことなど、プラグマティズムは科学主義的、実験主義的に働いたのだと。そして、この反イデオロギー的自由こそが、アメリカの最も価値ある伝統だとローティは言います。

しかし一方で、ローティのプラグマティズムは従来のプラグマティズムとは異なります。それは、「方法を持たないプラグマティズム」と呼ばれるものなのです。プラグマティズムには、信頼できる方法があるという科学主義がありました。しかし、ローティはそのような方法は無いという反科学主義の立場をとります。これは、ネオプラグマティズムと呼ばれたりもします。

ローティは、哲学的な深さを悪しきものと考えます。さらに、プラトン的な夢に至っては最悪のものだと考えます。彼の基軸は自由主義の擁護なんです。そのためには、「方法を持たないプラグマティズム」と、「深さを奪われた大陸哲学」が一緒になればよいのにとまで言うのです。

難解ですか? ローティの論文「方法を持たないプラグマティズム」の一節を引用しておきましょう。

「確かにわれわれには、互いに語りかけ、世界に関する見解について話し合い、力よりも説得を用い、多様性に対して寛容であり、心から反省する用意のある可謬論者であるべきで義務がある。けれどもこれは、方法論的原理を持つ義務とは、別のものである。」

■5 脱構築

脱構築。何それ、美味しいの? などと聞く人は冗談が好きな人でしょう。まあ、冗談はさておき、脱構築を聞いたことも無い人、だいたい知っている人、詳しい人がいるでしょう。とりあえず、誰にでもわかるように書いてみます。

脱構築とは、哲学者ジャック・デリダ(1930−2004)の用いた言葉で、フランス語では、デコンストリュクシオン、英語では、ディコンストラクションであり、日本語では解体構築と呼ばれることもありますね。もともとは工学系の言葉で、機械を分解して部品を取り換えて別の機械を作ることなどを指します。

デリダのいう脱構築とは、何かを伝える時には、すでにそれに対する反論が、そこに含まれているということの論証です。当たり前の話ですね。簡単に言えば、何にだって反論できるよということ。

ちょっと難しく言うと、二項対立の解体作業であり、ロゴス(言語)中心主義への批判的方法でしょうか。

■6 民主主義

「民主主義? それって結局、多数決のことだよね」こんな風にいう人がいますが、違うんですねえ。

民主主義とは、市民の討議による政治です。多数決というのは、意思決定の技法の一つであって、本質ではないんですよ(異論があることは、100も承知ですよ。笑)

ムフ(1943−)という政治哲学者は「闘技的民主主義」を主張します。それは、社会の多元性を認め、多元性を受けいれる民主主義です。目標は一致ではなく、差異を認め合うことなんです。

それから・・・民主主義とは本質的にローカルな性質を持つものなんです。地域や文化に根差した民主主義が好ましいということですね。国が大きくなると、民主主義も難しくなります。世界民主主義となると(そんなものは今現在ありませんが)、もっと難しいでしょう。

みなさんは、民主主義について、どんな本を読まれましたか? え、民主主義が好きじゃない??? ふむ、ムフを読もう・・・。

■7 自文化中心主義

一般に、自文化中心主義というと、自文化を最高のものとして他文化を否定したり、排除したりする、エスノセントリズム(ウィリアム・サムナーの造語)のことを言います。何とも怖い考え方です。

しかし、ローティもまた、自分のことを自文化中心主義者だと言い出すんです。「え、なんで?」と思いませんか?

もっとも、ローティのいう自文化中心主義は、自文化至上主義ではありません。そうではなく、自分自身が何かを見る時には、必然的に自文化という立脚点から見るより他に方法がないという意味なんです。

この語りはかなり戦略的です。自文化中心主義という言葉を友好的に再解釈しているのです。

いかがでしょうか? あなたは、リベラル・アイロニストですか? 私はもちろん、リベラル・アイロニストですよ。