白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

13.解放と創造の哲学

5月のことだ。思想家である私に、自らの思想を示す著作がないのは問題だなと思った。各論についての批判なら簡単だ。しかし、そんなものを集めても思想とは言えない。立脚点と体系を明確に示すこと。そのヒントを求めて、私はブログを立ち上げた。

近代経済学や心理学、そして脳科学や医学といった権力者御用達の学問とその欺瞞を暴きたかった。巨大資本の持つマーケティング技術の恐ろしさを語りたかった。だが、そんなものは私が得た知識の一部であって、より深い知見を持った先駆者が多数いる。そんなことを書くのは私の役割ではないだろう。そうではなく、なぜそういう考えを持つのかという哲学的な支柱を開示しないといけない。いや、嘘はいけない。開示ではなく構築と言うべきだ。この作業を終えるまで、私は思想家を自称するのをやめることにした。

成長、進歩、豊かさ、絆、統一、発展・・・。一般人はこういうものをポジティブなこととしてありがたがる。しかし、こういった言葉こそが権力の用意した麻薬なのだ。偏った価値観を当然のごとく押しつけられ、協調を強制される。たとえ疑問を持ったとしても、それを口にすると損をする。人はシステムに組み込まれ、機能としての価値を与えられる。時代への絶望。しかし、そんなものは生きる役には立たない。

もっと戦略的でありたい。否定と抵抗という戦術は幼稚だ。そうではなく、事実を明確にし、メリットとデメリットを示して権威を相対化することが必要なのだ。短絡的に賛同者を増やすのではなく、ニュートラルに判断できる人を、そして判断できる状況を作ることが重要なのだ。

あらゆるメディアにおいて、資本に都合の良い論理が溢れている。もちろん反対派の言説も流通はしている。しかし、それが一定の水準を越えることはない。つまり、反対派の大御所達は、勝てない戦いをすることで収入を得ているのだ。それは権力の側が「自由という旗」を掲げるために必要な存在なのだ。言い換えれば彼らは共犯者だ。そういう反対派の言説に、私は興味が持てない。

私は権力に抗うつもりはない。ただ、私の思索は「押しつけられた常識」から常に自由でありたいし、解放された状態でいたい。はて、私の役割は何だろうか。それはまだ文章化されていない思索を開示することであり、現実的な方策を示すことであり、それを上手く流通させることだろう。現実の社会を、あるいは現実の人間を動かせないようでは哲学とは言えない。

私が目指すのは「解放と創造の哲学」だ。私は一個の人類として、その任務を遂行する使命を感じている。使命など妄想であることは承知している。しかし、世界は錯覚と幻想と妄想で動いているのだ。それが人間の社会であり歴史なのだ。正常か狂気かは問題ではない。ただ存在し活動すること。たとえ無意味に見えるとしても、それは確実に作用するのである。

(2013年6月29日)