白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

ナショナルミニマムの改善と勤労の義務の廃止

ナショナルミニマムの根拠は憲法25条の生存権である。

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

ナショナルミニマムとは、いま話題のセーフティネットのことで、生活保護がその最低線である。憲法では、国はこの水準を上昇させることとしているのに、憲法に逆らって、いま切り下げが検討されている。 厚生労働省は2007年になってようやく日本の相対貧困と調査レポートを公表した。それによると、全体での貧困率は15.7%だ。この数字はOECD加盟21ケ国の中で4番目に悪い数字だ。では、ナショナルミニマムの水準はどうか。これもまた、先進国平均の70%という低い水準なのである。さらに日本では生活保護を受けるべき人が生活保護を受けていないという問題があり、これについては国連から勧告も受けている。 確かに日本の財政は危機的だ。国の借金がGDPの2倍以上という未知の領域にいる。そのうえアベノミクスでプライマリーバランスは史上最悪となる見込みだ。高齢化に伴う社会保障費の増加は必然的なのだが、それを削減して経済政策に巨額の予算をまわし、景気を刺激して税収増を図るのだという。しかも、社会保障費にしめる生活保護の割合は小さいものなのだ。 いったいあの生活保護バッシングの背景には何があったのか。これは、何かを攻撃することで同調者を集めるという手口だったのだろう。他国を罵ることで仲間意識を生むやり口と同じだ。大衆は簡単にメディアに操作され、集団的アイデンティティに安心し、また熱狂する。日本とはそういう国だ。民主主義や人権や福祉というものに対する理解が乏しい国なのである。 しかし、私が問題にしたいのは、それだけではない。憲法を改正するのであれば、いっそう「勤労の義務」を削除すればよいと思うのだ。

第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。児童は、これを酷使してはならない。

注目すべきは、勤労の権利である。日本ではこの権利が守られていない。そして、ブラック企業が横行し、労働条件は悪化している。もっとも、これにはグローバルな経済環境が関係しており、国を責めても意味がない。いっそう、国は雇用を目標とするのをやめて、勤労の権利も義務も無くしてしまったらどうだろう。 俗説とは裏腹に、世界的に見てエネルギー資源も食糧資源も潤沢である。もはや、世界の経済成長を担えるのは新興国だけであり、問題は成長という拡大ではなく公平な配分なシステムをどう作るのかとに変わりつつある。つまり、生活保護の切り下げは負け犬の戦略なのだ。 希望の持てる国にするならば、生活保護の要件を緩和し、ブラック企業やワーキングプアを減らして、生活保護で安心して暮らせる人を増やす方が経済学的にも、福祉の観点からも、賢明なのである。 私はメディアの薄っぺらな世論操作的番組などは見ない。それよりも総務省はじめ各省庁が発表しているデータやレポートを見る。いまはインターネットで簡単にアクセスできる。 高齢化と過剰とデフレという世界経済の大潮流の最先端を独走する日本に世界は注目している。さあ、憲法改正だ。勤労の義務からの解放だ。