白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

世俗的な承認欲求と精神的成熟

マズローを持ち出すまでもなく、承認欲求は誰にでもある。しかし、これは終わりなきゲームだ。なぜならば、一つ満たされると次の欲求が生まれる。それを進歩とか成長と呼ぶこともできよう。しかし、それは多くの場合、不毛であり、挫折を伴い、精神的未熟さを露呈することになるだろう。

私の親分は、世俗を離れて、一人楽しめと言った。それが出来るのは、精神的に成熟した人だけだ。

もっとも、人間は社会性の動物であり、一人で暮らすようには作られていない。

そう思うと、今度は精神的成熟とは何かという問題になる。それはきっと、利他的になることだ。言い換えると、利己的であることの克服だ。

ふむ。世俗の承認欲求に踊らされてはいけない。成熟していないならば、それは必ずどこかで躓く。躓いてもいい。そこから学ぶのだ。同じ過ちを繰り返さないように。

私はこう書いて自分に言い聞かせる。

黒崎玄太郎研究所、再起動

とりあえず、ミッションを変更しました。

4月1日を目途にウェブサイトもチューニングします。

 

黒崎玄太郎研究所

■コンセプト
人間を病める動物(ホモ・パティエンス)と自虐的に定義して苦笑するだけの腐った時代は終わりました。文明の文法は根本的に変わったのです。
旧文明と新文明が混在する現代。旧文明による妨害に負けることなく、軽やかに新文明を生きる。そして、より良い新文明を作る。もはや私たち人類は、病める動物ではないのです。

■ビジョン
錆びついた雇用という人類最後の奴隷制度の最期を見届けましょう。
安価な労働力として消費されるだけの人生は最悪です。
人生とは楽しむこと。楽しくなければ人生ではない。

■ミッション
軽やかに生きること。
文明の文法を更新すること。
概念の創造。

黒崎玄太郎研究所/Research Institute of Gentarou Kurosaki (Kobe,Japan) | 新しい社会を共に切り拓く、思考と技法のパイオニア/ We are the pioneer of thinking and doing for newly societies !!

現在の課題(貧困の中で)

貧困にはだいぶ慣れてきた。夕食はコンビニおにぎり2個が定番化している。金欠パニックは、ここ半年ほどない。住めば都というが、貧困も慣れれば怖くなくなるのかもしれない。

現在の課題は「匂い」である。私自身が臭いのだ。お風呂入ってる、洗濯してる、とよく言われる。今日は某所で入店を拒否された。社会的に重大な課題と言えるだろう。この問題はヘルパーさんと一緒に解決して行きたい。

さて、現在の課題というタイトルにしたが、自分でもよく分からない。スクエアな世界から見ると、何もしていないとなるが、障害者世界から見ると、生活が出来ている、と言われる。

薬(抗精神病薬)で知能が低下し、好奇心と集中力を失っている鬱状態の私に、やりたいことなど、ある訳がないのだ。

それにしても、課題がないというのも虚しい。何か課題を見つけたい。それが現在の課題か。

過去に書いたエッセイを整理して、ちゃんとWORDのファイルにすること。推敲し直すこと。どこかで連載を持つこと。欲求はあるのだが体力がついてこない。まずは、この鬱状態を何とかしたいのだが、主治医は鬱のままで良いかのようだ。文章を書く時が躁状態なんじゃないですかとまで言われた。なんという医者だ。転院。これも課題なのかもしれない。しかしな、良い医者なんて、そうはいないですよ。

浮浪者気取りの時代は、そろそろ終わらせよう。清潔は課題だな。社会から疎外されないように努力する必要はありそうだ。

躁うつ病のコントロールも課題。脈拍コントロールも課題。脱・高プロラクチンも課題。健康面での課題もあるな。

でもね、スクエアな社会を長年経験して、成果という発想に汚染された観念を変えるのは容易ではないな。飢えているのは、生活ではなく、成果物なんだな。

貧困と障害の当事者研究。ベスト・エッセイはいろいろある。カオスなコラム21を拡張しようか。それとも。

成果物。先日、某障害者のアート作品展に出展した。書だ。スキャナで取った画像を添付しておこう。評判は良いのだが入選はしなかった。

課題ね。ビジョンが欲しいんだよ。思想が汚染されているのかな。焼きついたOS。自己改造は難しい。で、課題は何なんだ。優先順位は。

 課題-1 臭く無くなる(社会適応)

問題はその次だ。社会に出るのか、障害者世界に引き籠るのか、第3の道があるのか。まずは課題ー1のクリアだ。期限は3月末日。予算は1万円。無臭のレベルはヘルパーさんと決める。

あれ、こんなブログで良いのか? これが当事者研究だ。

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ベスト・エッセイ(1)

j-robert.hatenablog.com

2013年のカオスなコラム21より。

ちょっと過去の思索を整理しておきたくなった。

 

<再掲>

「活動に対する存在の優位」

幸福の源泉は活動から生まれる喜びだと言われる。活動とは、製作、スポーツ、演奏、演技、ゲーム、料理、創作、などなど何でもよい。熱中し没頭できる好きなことをやる。真の幸福はこうした活動からしか得られないとまで言う人もいる。

もちろん活動自体が楽しいだけでなく、ある程度の成果が出ると評価されるし、仲間との交流も生まれるだろうし、称賛をあびることもあれば、報酬が生まれることもあるだろう。活動することの内在的な喜びと共に、外在的な喜びを得ることもあるし、それもまた一つの目標になる。

ただ、だれもが活動の対象を持てると言えるだろうか。楽しみを見つけられない人はたくさんいる。実は私もその一人だ。昔はいろいろな楽しみがあったが、ある障害を抱えることとなり活動すること自体が難しくなってしまった。まあ、それでもこうしてブログを書くという活動を楽しめているのだから重症ではないだろう。しかし、本当に何もできない人というのは少なくないのだ。そういう人に活動を奨励するというのは、時に残酷なのではないのか。ふと、そんなことを思った。

はたして喜びは活動からしか生まれないのだろうか。そこで考えられるのが、存在していること自体に喜びを感じるということだ。これは、自分自身の人間性に対する信頼から生まれるものだ。優しさや、寛容といった人間としての在り方に自信を持つこと。そして、失われた活動に対する挫折感や敗北感を捨てること。そうして存在自体に自信が持てるようになれば、生きているすべての時間から満足が得られるように思う。

また、この存在自体への自信は、活動できる人にとっても大切なことだと思う。活動する人自身が素晴らしい存在であるならば、その活動もまた輝きを増す。

活動と存在、どちらが重要かと言われれば私は迷うことなく存在だと答える。自分が出来ていなひとが活動で成功することは珍しくない。しかし、私は人を活動だけでは絶対に評価しない。たとえ功績や成果が無くとも、人間としてどうか、ということが一番大事なことだと考えるからだ。

まずは人間を磨こう。この言葉は私自身に対する励ましだ。誰に対しても開かれた態度をとること。優越感や劣等感と無縁であること。できるだけ優しく、寛容であること。どうやら課題は山のようにある。

動物たちを見よう、彼らは何も生産的な活動をしていなくても、生きている瞬間、瞬間において満たされているように思う。生きるとは本来、ただ生きているだけで満たされているという状態ではないだろうか。生きるということに、価値も、意味も、比較もいらない。まずは今、満たされていると感じること、自然な状態を感じることだ。これこそが活動に対する存在の優位であり、この基盤を持たない活動はすべて虚しい。まずは今を楽しもう。それが寝たきりであっても、介護を受けている状態であってもかまわない。自然でありさえすれば、狂った価値観に汚染されていなければ、それは常に可能だ。今という瞬間には再現性がない。今ここを生きる。今ここに喜びを感じる。それが活動に対する存在の優位。