白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

9月の終わりに

令和2年。コロナ禍。東京オリンピック延期。

私はというと、カクヨム「精神疾患日誌」をスタートさせ、3月頃は出版意欲があり、5月には歩行困難になり、アルコール依存症で入院し、その後、便失禁が続くなど、ろくでもない9ケ月だった。

訪問看護は、週2回から1回に減った。通院は内科が週1回、メンクリが2週間に1回。ヘルパーはガイドヘルプを含めると週5回。それに就労継続支援B型と地活が入る。

忙しいはずなのだが暇だ。B型にも、地活にも行かないからだ。朝からハイボールを飲んでいる。社会規範から外れた生活をしているのだ。

問題意識はある。どうするべきか考える。しかし、結論が出ない。いろいろな人に相談する。それでも結論は出ない。

再起や復活など考えていない。余命8ケ月。日々、淡々と暮らせれば十分だ。それでも精神状態が不安定になる時がある。ハイボール漬けになる時がある。

日々、どう過ごすか。実に悩ましい。お金があれば良いのだが、お金は無い。

なら、働いて稼げよって。俺は重度の精神障害者なので仕事などない。

結局お金か。それでは知恵が無いな。

今年もあと3ケ月。無事ならそれで良しだ。

 

お気楽革命の時代(2)


2012年09月21日(金) 11時47分18秒
テーマ:壊れキャラ時代

昔から、お気楽は三文の得という。まあ、お気楽は損得にこだわらないので、何が得なのかはどうでも良い。ああ、今日もバカなこと書いてるなあ。よくこれだけ、バカなこと書けるね。それって才能?

そうなのだ、こんなブログに毎日100人もの人が来るのだから驚きだ。こうなったら、日本一おバカなブログを目指してはどうか。そんな声が聞こえてくる。きっと、幻聴だろうな。

私のブログの特徴はモバイルからのアクセスが無いこと。これ、真面目に理由の分かる人は教えて欲しい。ところが昨日は70ほどモバイルからのアクセスがあった。これも原因不明。どうしてなんだろう。

お気楽は健康に良いと思う。お気楽に生きると将来が不安になると思われるかもしれないが、その心配はない。お気楽だからだ。

つまり、中途半端なお気楽はキツイ。お気楽は揺れても良いが、揺れ過ぎてはいけない。加減が難しい。お気楽スマイルをキープしないと。

そんな訳で、今日は出掛けることにした。お気楽検定を受けてくる。結果は後日ね。


お気楽十箇条

 

2012年11月05日(月) 22時01分38秒
テーマ:壊れキャラ時代

■その1
まず、看板を出すこと。お金がないので、アメブロのブログで十分。まあ、お気楽にはその辺りが相場だろう。

■その2
研究といっても深刻に考えたのではお気楽にならない。学会のジャーナルに寄稿するなどという面倒なことはやらない。お気楽にはその辺りが相場だろう。

■その3
お気楽とは「成熟した、しなやかな大人の構え」のことだ。しかし、所長がまだお気楽として認知されていないという現実がある。これを問題視することはタブーだ。お気楽で行こう。

■その4
基本的に布教活動はしない。お気楽になりませんか、と声は掛けない。ただ、お気楽になりたいな、という人が自然に集まるのが理想。戦略なんて、お気楽じゃないよね。

■その5
研究所は階層型組織ではない。リゾームだ。なに、リゾームが分からない?興味があればググって欲しい。まあ、お気楽で行こう。

■その6
お気楽は能天気ではない。自信と謙虚さがその持ち味だ。だから私も、いつか画期的な「お気楽論文」が書けると信じている。もっとも、構想は未だない。

■その7
世の中は広い。中には私に会いたいという人がいるかもしれない。私もそういう人が入歯、いやいやいれば会いたいと思う。人生とは出会いだと思う。

■その8
ストレスは大敵だが、ストレスがまったく無いというのもストレスだ。お気楽にもそれなりの緊張感はある。常に幸福では幸福は感じられない。お気楽はこのパラドクスを熟知している。

■その9
お気楽はユーモアを忘れない。ユーモアこそが、人生を美味しく生きるこつだ。お気楽な人生は美味しい。美食は許されて当然だ。

■その10
お気楽といっても、いろいろなタイプがある。お気楽にも多様性は大切だ。お気楽が一人いるだけで場は和む。そういう存在を目指したい。

日本人はとかく暇を嫌う。「小人(しょうじん)閑居して不善をなす」が強調されるが、その後に続く「大人(たいじん)閑居して善をなす」はあまり言われない。お前らは凡人で小人なのだから忙しく働いておけば良いのだ、という言い分を従順に受け入れているのだ。
 しかし、お気楽系は違う。お気楽系は大人である。いや、人は皆、根本的に大人だと考えている。そして大人にとって最も大切なものが閑暇なのだ。閑暇をどう過ごすか。これこそが人間的営為の結晶であり、最も貴重な、味わい深い時間なのだから。
 でもね、暇があってもお金が無いと楽しくないし、働かないと食べて行けないし・・・と考える人もいるだろう。あるいは、お気楽系なんて金持ちだからこそ言える戯言だと思っている人もいるかもしれない。だが、真相は違う。私の知っている生活保護受給者は、数本の煙草と1本の缶コーヒーで会話を楽しみ、毎日を豊かに過ごしている。物質的な豊かさよりも、閑暇という時間的な豊かさの方が、どれほど精神的に稔り多いことかと嫉妬してしまうくらいだ。
 なにも、生活保護制度の利用を勧めているわけではないが、私にはワーキングプアが理解できない。さらに、政府が雇用促進に力を入れ、社会保障をおろそかにするのには大反対である。「働かざるもの食うべからず」という考え方は、ワークフェア(workfare=労働+福祉。福祉の受給に、労働ないし職業訓練を要件とする考え方)という、労働を懲罰的に使う最悪の思想と政策を生んだ。困った問題である。
 では、お気楽系は働かないのかと言うとそうではない。そういう問題では無いのだ。お気楽は、仕事の手を抜くかと言うと、それもない。要は、閑暇という豊かさが、物質的な豊かさよりも尊いということを知っているのだ。
 お気楽系は、仕事中毒になることもなければ、将来を悲観することもない。そして、何よりも「明日より今日が大切だという感覚」で生きている。
 現代社会は、いろいろな手段を使って脅しをかけてくる。勉強しないと、資格をとらないと、一生懸命働かないと、貯金しないと、大変なことになりますよ、と。その度に閑暇が失われる。はっきりと言おう。「そんな脅しに負けると、大変なことになりますよ」と。 閑暇は豊かさであるとともに美徳である。それには、将来の不確実性という対価を支払うだけの価値がある。

「お気楽」とは、脳天気のことではない。能天気な人に、能天気はおやめなさいと言うつもりもない。また、脳天気な人ならば、この文章を読むこともないだろう。「いや、私は能天気だ」と主張する人もいるかもしれないが、きっとその人は、本質的に能天気ではない筈だ。
 私の言う「お気楽」とは何か。それを厳密に定義してしまうと、それは「お気楽」ではなくなってしまう。そこで、曖昧にそれを示してみよう。
 「お気楽」から連想される言葉。それは、しなやかさ、自然な、自由な、生き生きした、みずみずしさ、と言ったものだ。あるいは、硬直的でない、奔放な、余裕があるといった言葉を付け加えても良い。定義として不真面目だ、と怒られるかもしれないが、真面目すぎない、というのもお気楽の特徴である。(言い訳だろうか?)
 さて、なぜ今、「お気楽」なのか。これは、現代日本社会を分析したうえでの一つの結論である。今、お気楽が不足している。そして、お気楽が求められているのだ。
 お気楽系が求められる背景には、以下のようなタイプの衰退がある。
  1.保守的な人生設計という考え方が破綻した。
  2.上昇志向の空気が薄まり閉塞感が漂っている。
  3.スピリチュアル・ブームにも陰りが見える。
  4.おたく文化も行き詰まりを見せている。
 生き方はいろいろあって良い。むしろ多様であるべきだ。しかし、生き方の選択を間違えると自らを苦しめ、人生を楽しめないということになりかねない。「お気楽系」も一つの選択肢。決めるのは自分自身だ。
 さて、そう言う私自身が「お気楽系」なのか、と問われると顔色が変わる。鋭い質問だ。実は、私もまだ完全には「お気楽系」にはなれていない。しかし、私は決断した。これからは、「お気楽系の時代」なのだ。私も「お気楽系」になってみようではないか。そのために、私自身が持つリソース、つまり知識や道具、時間やお金、人脈や肉体を使って、どうすればお気楽になれるのか、言い換えると、お気楽になるための<技法>の開発と整理に乗り出すことにする。
 それは、認識の技法、思考の技法、分析の技法、習慣化の技法、意思決定の技法、表現の技法、伝達の技法、捨てる技術、考えない技術、等々だ。これらを実践しながら整理すること。それは一つの実験と言えるかもしれない。
 ん。全然「お気楽」じゃなさそうだって?
 嗚呼。お気楽への道は遠いのか。(笑)

お気楽でいられるための一番の条件。それは自信だろう。では、自信とは何だろうか?
 ある事柄についての自信ならともかく、漠然と自信とは何か、と問われると少し考えてしまう。私ならこう答える。自信とは、多少状況が変化しても生きて行けるという見通しがあることだと。つまり、将来がたとえ予定通りにならないとしも、何とかなるという楽観的な態度。これが自信なのだと。
 もちろん、根拠があるかもしれない。健康であったり、技能があったり、対人能力に優れていたりといったことも要因になるだろう。しかし、同じような能力、要因を持ちながら、同じような状況にありながら、自信が持てる人と持てない人がいるのは何故だろうか。それは単に、性格の問題なのだろうか?
 答えはノーだ。自信は思考のトレーニングの賜物だと私は考える。適切な思考を積み重ねることこそが自信に繋がるのだ。逆に、誤った思考が悲観を生む。
 そうは言っても、自信と社会的諸条件の間には相関があると言われるかもしれない。しかし、これはどちらが原因でどちらが結果とも言い難いところである。つまり、自信があるからこそ、社会的諸条件が向上された、と見ることもできるからだ。
 さて、一番肝心な点は、適切な思考とは何かということだ。結論を簡単に言えば、それは、現状を肯定的に受け止めてから問題や課題を探すか、現状を否定的に受け止めて全てを問題だと考えるか、の違いである。もちろん、前者が適切な思考であり、後者の思考は生産的ではない。たとえ状況が悪くとも、生きているという現実は否定できない。できる限り、現状の良い点に目を向け、そのうえで問題の発見や改善、あるいはさらなる向上を考えるべきだと言えるだろう。
 世界は常に不条理に満ちている。不公平も不平等も存在する。賄賂も犯罪も残忍さもある。それは受け入れ難いものではあるが、まずは、良い点にも目を向けて現状を受容することだ。これは、社会についてだけでなく、自分自身についても同じである。ある程度の寛大さをもって現実を受容したうえで課題を設定しない限り、いかなる批判や抵抗も望ましい結果を生むことはないだろう。
 繰り返しになるが、お気楽の第一の条件は、適切な思考に基づく自信である。その基底には、現状の肯定的な受容がある。それは、決して批判精神を持たない事なかれ主義ではない。そうではなく、このような態度こそが、より本質的で鋭い批判や、意味のある問題解決を可能とするのだ。お気楽は決して利己主義ではない。

お気楽革命の時代(1)

8年前の今頃

悩めるお気楽

2012年09月20日(木)

お気楽とは何か。そんなことに悩むようではお気楽と言えない。適当に何か語って、最後にわははと笑えば良いのだ。と、ここまで書いて、既に芸風が乱れていることに気がついた。書き直しだな。

知的なお気楽というのは、悩んでも解決しない問題については考えない。だって、時間の無駄じゃん。それよりデートしてる方が楽しいじゃん。

ん。デート。そう言えば最近デートをしてないぞ。そうだ、相手がいないんだ。ワハハ。

笑いごとじゃないぞ。悩みってデートか? なんか違ったような気がする。

お気楽である以上、モテないとだめだ。歳をとっても若い子が寄ってくるだけの魅力が欲しい。一番は顏、二番は服装、三番が体型、四番目に性格、五番目に頭脳。まあ、順番はどうでも良い。え、お金? それは気にしない・・・。

でもね。昔、こんな会話があったんだよね。

TT氏「モテて、良いなー」
俺「いや、モテるとお金かかって大変ですよ」

看護師「痩せたらモテるでしょ」
俺「モテたら、金かかって困るでしょ」
看護師「・・・(何やら反論)」
※注 看護師ならダイエットは健康のためと言うように!!

モテ期って本当にあるんですよね。
いつも女性に囲まれている時期が。

そんな時代もあったねと、笑って済ませるのがお気楽だ。お気楽は決して悩まないんだ。あるいは、悩むことを楽しむんだ。悩むことを快楽にするんだ!!

お気楽○○ちゃんは、小太○○ちゃんに挑戦するのであった・・・。
※中 今は小太りを超えて肥満につき!!

時代の気分はこう変わる

2012年09月15日(土)

俺はね、時代の気分を変えたいのさ。いまの社会の持つ価値観とか常識とか観念とかいったやつを含めてね。まあ、野望かもしれないね。だから俺は、小説を書き、詩を書き、コラムを書いている。まあ、燃えてる時と、燃えない時があったけどね。

仕事一筋に生きてきた50代なんて視野の狭窄でしかないからさ、そういう人の話は聞かない方が良いし、ましてや友達なんて無理さ。え、今の50以上の男性はほとんどそうだろうって? そうかもしれない。ま、話もしたくないね。

俺が応援したいのは、世代間格差という構造に埋もれて倦怠感を引き摺っている若者の方なんだ。なんだか共感できるんだよな。何も知らない、何も出来ないおっさんに古い価値観を、たとえば努力とか根性とか忍耐を押し付けられて吐き気のしている若い世代の力になりたいんだ。ただし、力は無いんだけどね。

力か。腕相撲も弱いしな。金は無いし。こんな奴だから、変な人脈ばかりさ。今度、UFO見に行かない、とかね。

でも思うんだよな。今の若者を支配している無力感。これはマズイぞってね。若者には未来を変える力がある。これは真実なんだ。だから、発信しよう。そして、交信しよう。

点は線になり、輪になって、いくつもの輪が広がって、ぶつかって、時代の気分が変わって行く。視野狭窄のおじさんやおばさんに任せていたら、大変なことになるぞ。

ちょっと話が固かったかな。男が固いのは夜だけで良いだって? 意味がわからない。

「若者のためのお気楽講座」でもやろうかな。いいね。中年のための、高齢者のための、主婦のための、父親のための・・・内容は全部同じようなものさ。(笑)

まず、世界を疑え。あなたは、政治も、経済も、社会も知らない。メディアが作り出す世界を信じているだけだ。虚妄を捨てよう。

世間は3連休だけど、俺は365連休だからね。だから、土曜日の朝にブログなんか書いてるのさ。

あ、それから俺、○○住みなんだけど、友達募集中なんだ。未来の社会を夢想的に語れる友達をね。あなたは無力じゃない。その証拠に、このブログにたどり着いた。これから、楽しくなるぜ。

究極のセラピストは人類を救えるか?

 

2012年09月13日(木)

地球を救うためには、人類滅亡が良いと思うよ。地球を救うって、結局、人類を救うにすり替えてないか。すごく下品で、いやらしい言葉に感じるわんこ。にゃんこ。天気予報。

今読んでる「ワーク・シフト」いう本に書いてあってんけどな、先進国の人は収入が上がっても幸福感は下がる、いう調査結果が出てたわ。消費と所有の時代は、もう終わってるんだよね。なるほど、納豆。

で、今日ふと思ってんけど、究極を言うと、意味とか価値とか関係ないねんな。存在しているだけで満たされているという感覚。そう、子供の頃のあの感覚。それが一番大事やなって。これが出来れば、究極のセラピストやで。

こういう天然ちゃん、お気楽ちゃんの友達って良いよね。とてつもない安心感があるよね。絶対に楽しいよね。決まってルーシー。

語尾というか文末が変やけど、許して寝床。明日からは真面目に不真面目するからね。で、僕ちゃん昔、有名企業で良い給料貰ってましてん。でも、忙しかったなぁ~。そんな時、安月給の人たちと知り合ってショックだった。そっちの方が楽しそうやん!!なんで?

結局、地位とか収入に縛られると苦しくなるねんで。頑張って上へって、酸素が薄くなるだけやで。過労死とか、何件も見てきたわ。まあ、会社辞めて本当に良かったと思ってる。ちょっと壊れてしまったけどね。

壊れたいときは、心行くまで壊れたら良い。中途半端に格好つけると痛々しい言うのは、教えといたげる。バサッと行こう。

そんな訳で、お気楽文化研究所というのは、文明の大転換を企図する、上品な人の集まりなんですね。ほんまかいな・・・???(謎)

悩むのは反応。
悩まないのは意思。

そういうこっちゃ。

お気楽は性格じゃない。
哲学的な構えやねん。

まあ、ぼとぼち書くわ。
今日はこの辺にしとこ。

 


2012年08月21日(火)

時代は「お気楽」へと向かっている。緩く生きること。これこそがテーマだ。


そこで私は「お気楽文化研究所・設立準備委員会」の委員長になった。
設立趣意は下記の通りだ。

■設立趣意書
「お気楽」とは、能天気なことではありません。
それは、余裕のあるしなやかな構えです。
成功幻想に駆られることも、精神世界に救いを求めることもありません。
いわば、現代における成熟。
それが、私たちのいう「お気楽」です。
お気楽文化研究所は、お気楽についての研究を通して、より多くの人々に、そして社会に貢献することを目的として設立を目指しています。
より多くの人が、お気楽の構えで生活できることを願って、情報提供や場の創出を行うことを主な事業とします。
広げよう、お気楽の輪。

2012年8月21日 発起人 お気楽○○○ちゃん

賛同者はコメントまたはメッセージで連絡お願いします!!

「お気楽」それが私の進む道!!
お気楽は三文の得

夢も希望も無い方が良い

夢。希望。若い頃はたくさんあった。叶ったものもあれば、叶わなかったものもある。思えば50歳までは華やかな時代だった。結婚した。子供が出来た。家を買った。毎日銀座で飲んでいた時期もある。毎週、大阪で遊んだ時期もある。友達は、それだけ美味しい思いをしたのだから、あとは入院して死ぬのを待ちましょうと言われた。

少し前まで、夢はともかく希望はあった方が良いと考えていた。生きるにはモチベーションが必要だと思ったからだ。しかし、劣化した知能と肉体にとって、希望は重荷だと思うようになった。

昨日来た友人に「夢も希望も無い方が良いでしょ」と訊いてみた。

「無い方が良いでしょ」即答だった。

医者がどこまでマジで余命宣告をしたのか知らないが、まるっきり冗談ということはないだろう。ならば、あと9ケ月の命だ。淡々と日々をこなす。ただ、それだけだ。

老境とはそんなものではないのか。欲の塊のような老人もいるが、いつかはくたばるのだ。

今日もハイボールを飲んだ。幸せだ。