白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

ポスト・グローバリゼーション

■グローバリゼーションの現代

1990年代以降に急加速したグローバリゼーションも、ここに来て踊り場に来ているようだ。トーマス・フリードマンが「フラット化する世界」で示したように、国家的地理的な制約がなくなるということは、必然的に、世界的な富裕層の増大と、新興国中産階級の増加。そして、先進国の中産階級の没落を招く。それは世界が公平になるとだと歓迎する人もいれば、反対する人もいるというのは当然の現象だ。

ここで注意すべきことは、資本と国家についての根本的な変化である。従来から政治と資本は協調(癒着)するのが常ではあった。国家は資本に対して便宜を図ってきた。それはまた、国家には経済をコントロールする力があったということだ。

しかし、アメリカにおいて顕著なとうに、グローバリゼーションの進行とともに、資本が政治をコントロールするようになり、民主主義が機能しなくなっている。この現象は、既存の国家概念、国民国家という概念を大きく変えるかもしれない。

国家とは何か。国家は必要か。いや、そんな問いよりも前に、世界は国家とは違う次元のレイヤーを、国境を越えた階層ないし集団を形成するように見受けられる。そのような新国際秩序の最上層にあるのは、国家ではなく巨大資本であり多国籍企業だろう。彼らは国家に働きかけ、新しい国際秩序を作ろうとしている。

 

反グローバリゼーション

グローバリゼーションへの抵抗は世界各地で起きている。それには政治的理由、経済的理由、文化的理由などがある。先進国においては国内の貧困化と格差の拡大への不満が大きいし、新興国におては伝統文化の破壊や環境問題などが指摘される。

しかし、なによりも大きいのは国際政治の流動化と国家の衰退(形骸化)、民主主義に対する脅威という問題だ。ダニ・ロドリックは、グローバリゼーションの今後の選択肢として以下の三つをあげている。

1.民主主義を犠牲にしてでもグローバリゼーションを進める
2.グローバリゼーションを進めるとともに政治統合を推進す、グローバル民主主義を実現する。
3.国家レベルの政策的自律性を保証し、民主主義を維持するとともに、グローバルリゼーションに一定の制限を加える。

いずれにしても、巨大資本と国家および民主主義との関係は歴史上経験したことのない問題であり、いままさに微妙で複雑な駆け引きが行われているのだ。

自己の利害や立場から「反グローバリゼーション」を主張するのは自由だが、個人的な思いを表明するだけでは意味がない。より現実的で具体的な議論が求められるのだが、グローバリゼーションを推進する陣営はそのような場に顔を出さない。顔を出すのは代理人である政治家だけだ。そして政治家もまた、資本と国家の間で最善の答を見いだせてはいない。

問題を「グローバリゼーションvs民主主義」という単純な対立の図式にしてはいけない。グローバリゼーションの流れを完全には止められないし、従来の国家観も変わらざるを得ないのかもしれない。重要なのは、事実を正しく理解したうえで、ある程度の妥協を覚悟しつつ、より良い道を選ぶことでしかない

流動化した国際関係の現実を見て、巨大資本の側も従来のシナリオを捨てて、新しい施策や理念を模索しているのだろう。

これは単純に善と悪に分けるような問題ではない。「反グローバリゼーション」の旗を掲げるよりも「グローバリゼーションの持つ問題点」を具体的に示して、より望ましいグローバリゼーションを模索することの方が有益であることは間違いない。

 

■ポスト・グローバリゼーション

もともと規模の拡大という性格をもつ市場主義と、ローカルであることによって機能する民主主義は相性が悪い、というのはよく言われるところである。現在の国際社会の動向を見ていると、このまま民主主義が死に絶えるとも思えない。いや、むしろグローバリゼーションという一部の人々の希望は挫折する可能性もある。

グローバリゼーションの反対語はローカリゼーションだが、この動きの政治的側面は一般に右傾化と呼ばれる。近年の欧州の右傾化もまた、グローバリゼーションへの反動である。そして、この動きが世界中で強まっている。

政治の本質が闘争なのか対話なのかは議論の多いところだが、現実は闘争と対話の連続でしかない。それが今後どのように展開し、どのような結末を迎えるのかなど予測できるはずもない。ただ、この長く続くであろうグローバリゼーションの踊り場のあとに、新しい経済システムと新しい政治システムが登場するという予測は可能だ。

それには数十年から数百年はかかるというのは、歴史の示すところである。

変化は止められない。変化に抵抗するのではなく、より良い変化を考えることだ。私たちにできるのは、ただそれだけのことだ。