壺を売るヘルパーさん
新しいヘルパー事業所の代表理事が面白い。自らも時に現場に行く。学歴は知らないが、介護福祉士、社会福祉士、精神保健福祉士の資格を持っている。やんちゃな大阪人だ。目標は海外進出。投資家でもある。好事家かどうかはしらない。独身だ。
今後のガイドヘルプの組み立てなど、いろいろと話をした。話をしているうちに「私から壺を買いませんか。病気も治るし、大金持ちになりますよ」と言われた。冗談だろうが、こういう冗談はありなのだろうか。どうやらズブズブになりそうだ。それも流れ。流れには逆らえない。
久し振りに午前中からハイボールを飲んだ。生き返るんだよ。昼は蕎麦。将棋は楽勝。機嫌は上々。
今日は仕事をした。このブログのカテゴリーを整理したのだ。40分もかかる大作業だった。
ああ、書評ブログが泣いている。何か手を打たないと。いつまでに。決められない私。
さて、「バックギャモンな人々」の続きでも書くか。
最期に画像を張り付けてみる。効果は不鮮明だが。
あるがままに
とある理由で、開かずの空間となっていたクロゼットをヘルパーさんと一緒に整理したところ、貴重なものが多数出てきた。その中に、マハルシの「あるがままに」があった。今はマネージャーのくろいぬ氏からプレゼントされた本だ。多分2016年のことだと思う。
2016年。当時の精神科主治医は、お金が無いなら家に引き篭って、一日、瞑想をしなさいと私に指示した。京都大学出身だ。一流の医者なのだろう。しかし、どう瞑想するのか質問すると口を濁した。
私は真面目人間である。図書館に行き、禅や仏教の本を借りた。ネットも調べた。あるサイトでは瞑想の種類は100以上あると書かれていた。そんな時、マハルシの本を頂いたのだ。
要約はやめよう。「真我」というのが鍵概念だ。浮かんでくる思いを「それは私ではない」」として破棄する。瞑想で不純なものを取り除く。言われてみれば、自分も、自我も自己も実体のない脳の仮想だ。そんなものを基盤にした、精神科医療、心理学など信じるに値するだろうか。
私は余命1年と言われても、酒とタバコはやめないと決断した。そして、数冊の本を出版したいと思った。しかし、体力とお金がない。この煩悩をどうすれば良いというのか。あるがままに、こそが賢明なのだろうか。
私は前の主治医の指示で、無我無想の瞑想が容易に出来るようになった。しかし、反面、馬鹿になったあようにも思っていた。インプットが極端に減った。
あるがままにの悟りは崇高なのだろうか。信仰、あるいは信念。そして観念。最後に残るのが真我。それは真の至福なのだそうな。私はまだ世俗にいるのか。
さて、何をしようか。
さて、知能の回復は見られるものの、体調はいまいち。むしろ悪い。余命1年と言われる始末だ。1年は生きるとしても人生の仕上げをしたい。あれもこれも状態だ。作家として作品を残す。詩人として有名になる。書道家になる。いや、在野の研究者になる。
しかし、環境分析をすると、どれも難しい。まず、お金がない。能力が安定しない。どうしようもない。
出来るのは、いまあるホームページとブログの充実。そしてメルマガの継続くらいか。
マネージャーのくろいぬ氏は、得意の将棋を生かせと言う。上のサムネは、81DOJO(将棋)での私のサムネだ。Yahoo将棋時代に作ったんだ。お気に入り。59歳には見えないだろ。(笑)家の中で花火だぜ。
このブログ、いろいろと変遷があって、カテゴリーが上手く分けられていない。ここに、将棋や書評を組み込むのか。悩まし。
まずは、このあたりを整理しないといけない。
そう言えば、こんな言葉があった。
「神は細部に宿る」