寝るでもなく、起きるでもなく
寝るでもなく、起きるでもなく、横になって一日を過ごす。おそらく、寝られないのだ。そんな日が続く。出掛けるのは買い物だけ。誰と会うことも、会話をすることもない。テレビは無いし、電話相手はいない。孤独、貧困、障害。
死にたいと思う。生きることに意味や価値を見出せない。もう、一般世界にはいないのだ。着替えも、食事も、ままならない。死を考えるのは、自然だろう。
そもそも、人生という奴に、それほど大きな意味や価値があるだろうか。インダストリアル化された官僚社会で、自己を商品化する生き方が、それほどに魅力的だろうか。
快楽は、そこにある。社会の中で機能すること。そうしてええいれば安全だ。生きては行ける。
資本。キーワードだね。すべては、資本のために。再生産のためにだ。
私は、50歳で障害を抱えた。そして、55歳で貧困になった。最後にやって来たのが孤独だ。今の快楽は食べることと飲むことだけだ。なんだ、まだ快楽があるじゃないか。
快楽といえば脳内物質だ。精神障害者の私は薬でドーパミンを遮断される。快楽を禁じられているのだ。嫌なら飲まなきゃ良い。ただ、制裁が信じられない形でやって来る。
ああ、睡眠の話だったな。寝ているか、起きているか、わからない状態というのは異常だ。しかし、これから、こういう日が続くように思えるのだ。
いま飲んでいる精神科の薬。インヴェガ、炭酸リチウム、レキサルティ、トリンテリックス、リフレックス、ベルソムラ。重症だな。
そう、感覚的には、俺は社会の外側にいる。境界にあるのが福祉。それは、現実として死に近いもの。
精神障害者の人生観
転落の完結。それは生活保護となり、さらに金銭管理サポートが入ったことで終了だ。しかし今、生活が成り立っていないという事実がある。そしてまた、10年前のように、上を見たり、下を見たりが始まった。
一つには、精神障害者世界で生きるという考えがある。入院して、アルコール依存症を治療し、精神の施設、グループホームに入って生きのびるという作戦。しかし、酒もタバコもない人生など糞だとも思う。
もう一つは、生業を見つけ、生活保護から脱却し、一般世界に復帰するという考え。これはそう容易なことではない。諦めろという圧力がかかる。
さらに、このまま飲んだくれて死ぬのも人生、という考え方。何も行動していない現状は、このコースだ。
どれを選ぶか、迷う。お金さえあれば、問題は解決するのだろうか。そうでもない。自律的に生活をしなければ、飲んだくれて死ぬ人生だ。まあ、お金は無いより有った方が良いが。
どう生きるのか。考えがクルクルと変わる。まるで、主体が分裂しているかのようだ。
現状の経済で生活を固めろと識者は言う。それが出来れば苦労しない。それに、酒とタバコはどうなる。無理なんだよ。稼ぐ方が楽なように思うのだ。
しかし、現実問題として、精神障害を抱えて稼ぐのは大変だ。識者は動けという。ある識者は動くなという。これはもう、人生観の問題なのだ。
生きるとは何か。それは、楽しむということだと私は答える。一人で酒を飲み、家に閉じこもってネットをするだけで楽しいのか。欲が出る。吾唯足知の精神が必要だろう。
さて、どう生きようか。焦るな。まずは健康と身だしなみだ。まだ、60歳。動けなのか。動くななのか。いまはまだ決められない。そう言いながら、時間だけが過ぎて行く。困ったもんだ。
退院後
月曜日に退院した。火曜日は内科通院。水曜日、暴れた。
また、救急車を呼んだ。酸素は97。救急車では運んでくれなかった。
かと言って、タクシーで病院に行った訳でもない。
なに、暴れた。暴飲暴食暴煙だ。暴力はない。
また、何も考えられなくなった。眠れない。木曜日になってから、コンビニに行き、ハイボールとワッフルとタバコを買った。止まらない。
喘息の悪化で死への不安がある。孤独だ。もしかしたら、不安と孤独を紛らわすために、今、ブログを書いているのかもしれない。
それにしても厄介な病気だ。精神病のことだ。生きていたくないと思う。もう、無理だよ。憐れだね。どうしてこうなった。パワハラの辞令1枚でか。
過酷だよ。いまこうして生きているのも大変なことだ。何が楽しくて。ああ、滅入るな。寝よう。もうすぐ2時か。今度こそ。