白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

2.人間らしさの世紀

現在の日本で起こっていること。それはハイパー管理社会化の急速な進行だ。心の病は急増し、それは本人だけではなく、その家族、あるいは企業、そして社会や行政をも苦しめている。この病気には、本人の治療だけでなく、その環境を変えることも重要だ。しかし、現実はそうではない。精神科医療も、カウンセリングも、一方的に健常とは何かを決めつけ、健常さ、適応、を目指した規格化を行う。要は、従順に適応すれば良しとされる。だが、本当にそれで正しいのだろうか。

文明が発達しているのに、人々の労働時間は増え、生活の質が落ちている。なぜこうなったのか。それは社会の問題であるとともに、一人一人の誤った信念の結果だ。いま必要なのは、人間の規格化などではもちろんない。かけがえのない独自な存在としての「個人」を独自な存在として認め、その独自性を活かすことだ。これは単にわがままを認めよという意味ではない。

人は社会の道具では決してない。しかし、労働を義務とし、道具としての価値こそが人間の価値だと錯覚させようとする勢力は存在している。しかも、そうして自分が評価されたと喜び、この考え方を支持する労働者も少なくない。これは笑いごとではないのだ。

このままでは日本は、セーフティネットの破綻、貧困 の拡大、治安の悪化、といった危機に陥るだろう。今、新しい考え方、新しい制度が早急に求められているのだと私は思う。それにはまず、人間観と社会観を見直さな ければいけない。人を代替可能な機能としてのみ評価するような視点は捨て去らなくてはいけない。そして、新しい価値観、新しい制度に移行することが必要がある。

もっとも、そんななことを私一人で考え、実行できるはずもない。私は、こつこつと、自分にできることを少しずつやる。そんな中で、良い出会いがあればということを願っている。21世紀を人間らしさの世紀にしたいというのが私の願いなのだ。

バートランド・ラッセルは1935年に発表した「怠惰への讃歌」というエッセイの中で、人間は1日4時間も働けば十分だと書いる。勤勉を美徳と考えているマジメな人が聞くと、鼻血を出して怒るかもしれない。ラッセルには四つの道徳的基 準があった。「1.本能的、生理的に幸福であること 2.友情があること 3.美の鑑賞と創造 4.知識愛」。彼にとって、仕事は美徳ではなかった。人間の本分は閑暇にあるのであって、学校(スコーレ:ラテン語)とは本来、閑暇の楽しみ方を学ぶところなのだ。また、ベストセラーになった「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)も読んだが、そこでは結論として真にマルクス的な意味での労働時間の削減と自由時間の拡大という目標が明示されていた。

しかし、私は違うことを考える。1日4時間働けば十分と言ったラッセルは極めて精力的に仕事をしていた。國分氏も同じだろう。彼らは自らの仕事を労働だとは思っていないだろうし、自分を労働者だと感じたこともないのではなかろうか。

時代は変わったのだ。私たちが求めているのは苦痛としての労働ではなく、喜びとしての仕事だ。文明の発展や技術の進歩によって、人間は苦痛としての労働から解放される方向に向かうべきなのだ。それなのに、未だに苦痛としての労働を賛美し、必要もないのに雇用を創出しようと考えるのは実に滑稽に思える。その意味で、今、真に求められているのは新しい経済学である。それは、基本的に「ポスト成長の経済学」でり「ポスト雇用の経済学だろう」。この、ポスト成長の経済学が示され、支持された時に、新しい歴史の扉が開くのだ。

当然ながら、そのような仕事が私に出来るはずもない。私は適当に頑張るだけだ。

(2013年7月11日)