白井京月の研究室

経済学・社会学・政治学

マナーのパラドクス

マナーを守ろう。マナーは大事。よく言われることだ。しかし、私的にはゴミ一つ落ちていない綺麗な街というのは不気味だ。ある程度の猥雑さがある方が私の好みなのだ。

先日、某所でこんな事件があった。みんなで昼食を食べている時に、私がある人の炒飯を美味しそうですねと言った。するとその人は少し炒飯をのこして、私にあげると言った。私は断った。すると、別の人が私の行為をマナー違反だと言った。私からすれば残した炒飯を上げようとする方が上から目線のマナー違反だ。このように、文化によってマナーは異なるのだ。階級によっても文化は異なるし、文化は多様、つまり、マナーも多様なのだ。

ナイフとフォークでライスを食べる時に、フォークの腹にライスを乗せるのはフランスのマナー、背に乗せるのはイギリスのマナーだ。これなど、日本では好みの問題だろう。

昔いた会社の保健師は、誕生日にプレゼントを貰ったら、うれしく無くても大袈裟に喜ぶのがマナーだと言った。

マナーは高度化すると人に好かれる、人から尊敬されるスキルとなり、社会階層の上昇につながるかもしれない。

一番困るのは、非喫煙者による喫煙者へのマナーの押付けだ。タバコは決められた場所で吸いましょうといいながら、決められた場所を削減して行く。これは暴力だ。

きれいごと。前に書いた通り、マナーは文化に固有のものであって、文化が異なればマナーも異なる。この多様性を認識することが重要なのに、優勢な文化はマナーを押し付ける。そしてこれは、排除の論理となる。

障害者世界にいる私が感じることは、この世界の寛容さだ。薬の副作用で涎を垂らしている私を、誰も避けようとしない。逆に言えば、私は一般世界を生きるのが難しい。これも、マナーのパラドクスだ。